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猛り狂った母グマとの格闘

 山野井君とクマとの遭遇はどんなものであったろうか。後日談である。

 朝7時過ぎ、山野井君は日課のトレーニングに出た。妙子さんがいないのでいつもより早い起床だった。数100メートル下の奥多摩湖岸の国道に沿って、山の中腹を細い遊歩道がダム上まで続いている。山の斜面には、増えているシカが山を荒らさないようにシカ除けのネットが張り巡らされている。遊歩道も金網のゲートで仕切られているが、だれでも自由に開け閉めして出入りすることができる。

 走り出して10分ほどの所にあるゲートを開けて入り50メートルほど走ったとき、ふと前方からこちらに向かって走ってくる獣が見えた。

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「ンッ、カモシカかな?」

 獣は唸りながらこちらに走ってくる。

「???」。グワーッと吠えた。

「クマだ!」

 獣の後ろに小さな子グマの姿も見えた。山野井君は素早く反転しようとしたが間に合わず、クマに跳びかかられ、右上腕に嚙みつかれて山側に引き倒された。覆い被さってきたクマは人間の大人くらいの大きさで、腕を嚙みついたまま離さない。恐怖のなか必死の反撃を試みる。大声を上げながら左手の肘をクマの顔面に打ちつける。耳のそばで聞く、クマのすごい唸り声と荒い呼吸。野生の獣の臭い。猛り狂った母グマの顔が目の前にある。体験したことのない身の凍るような恐怖。

©iStock.com

「ウオー」という咆哮

 クマの手は体のあらゆるところに爪を立て、こんどは山野井君の顔面に嚙みついた。ちょうど鼻のあたりである。唸りながらその顔を左右に振る。鮮血が飛び散る。必死に肘打ちを続けるが、これ以上続けたら鼻を食いちぎられてしまう。痛みと恐怖で何度も意識が飛びそうになる。抵抗をやめた。フッと力を抜いたら、クマも顔を離した。「いまだっ」両足に渾身の力を込めて蹴り込んだら、クマと体が離れた。すかさず起きあがり、後方に走った。脇目も振らずに走った。クマの唸り声と、ときどき「ウオー」という咆哮が後ろで聞こえた。金網のゲートの所で振り向くと、まだ後を追ってはきていたが、追い付いてまた攻撃をしようという意図は見受けられなかった。とにかく姿が見えなくなるまで一目散に走った。もう一度振り向いたら、もうクマはいなかった。鼻を押さえながらヨロヨロ歩いた。手を離せば鼻が落ちてしまいそうなほどに食いちぎられていた。血が気管に入り、苦しかった。「気持ちをしっかり持たなければ」と思った。ここで気を失ったら、妙子さんはいないから、だれも探しに来てくれる人はいない。「なんとか家までたどり着かなければ」と、フラフラしながら歩き続けた。