ナリタブライアンの屈辱とサイレンススズカの悲劇
94年はビワハヤヒデである。この年は天皇賞(春)、宝塚記念を含めて4連勝。翌週に3冠馬となる弟のナリタブライアンとの対決がこの秋の最大の注目だったが、絶対に勝たないといけない天皇賞でネーハイシーザーの5着に負けた。さらに悪いことに左前脚に屈腱炎を発症、引退を余儀なくされる。兄弟が日本一をかけて対決する“ファンの夢”があっけなく消えた。
95年は弟のナリタブライアンである。春に股関節を痛めてしまい、7か月半ぶりのレースということもあり、サクラチトセオーの12着と大敗。史上最強との評価もあった3冠馬はここから苦難の日々がつづいた。
そして98年のサイレンススズカの悲劇——。1枠1番の絶好枠からスタートし、軽快に飛ばして逃げた。前へ前へと気持ちよさそうに走っていたが、ゴールはできなかった。勝ったのはオフサイドトラップ。
1番人気の連敗に終止符を打ったのはテイエムオペラオーで、2000年の秋だった。この年は8戦無敗、GⅠ5勝という、空前絶後の1年を過ごしている。
ディープインパクトが破った「シンザンの呪い」
ところで、85年のシンボリルドルフにはもうひとつGⅠを勝つチャンスがあった。肩の筋肉痛で土曜の朝に出走を取り消した宝塚記念である。ここにちょっとした因縁を感じる。
シンザンは3冠に加えて秋の天皇賞と有馬記念に勝って「5冠馬」と呼ばれたが、宝塚記念にも勝っている。「関西版の有馬記念」として創設されて6年目だったが、8大競走(5大クラシック、春秋の天皇賞、有馬記念)に数えられていなかったことで「6冠馬」とはならなかった。シンザンの「5冠馬」に対してシンボリルドルフは「7冠馬」と呼ばれるようになるのだが、宝塚記念を勝っていたら、どんな表記になったのだろうか。
ついでに記しておけば、シンザンのあとの3冠馬、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンは揃って故障のために宝塚記念にでられなかった。いまならば「シンザンの呪い」と言われたかもしれない。しかしこれも、シンザンから41年後の2006年に、ディープインパクトが軽く飛んで祓ってくれた。