河瀨 それで、「すみません、嘘です」と正直に言ったら戸籍を出してくれました。私が父親の名前を知ったのは、この時です。さらに父のことを知りたくなって、父の住所を記録した戸籍附票を取り寄せました。それを見ると、父は2年ごとに転居を繰り返していて、「この人は何者? どんな仕事をしているの?」と動揺し、それを頼りに書かれていた住所を訪ねたのです。ですから、私は真実を告知して欲しかった。私が傷つくような事実があるとしても、しっかり伝えて欲しい。その上で、今幸せだと一緒に喜びあえることが、開かれた関係性だと思うんです。
10代の頃は死ぬことばかり考えていた
有働 河瀨さんは、今回の作品を、特に誰に見てもらいたいですか。
河瀨 やっぱり、おじいちゃん(養父)とおばあちゃん(養母)ですね。私はあの人たちがいたからこの世界にいられる。毎朝、お仏壇のお花の水を替えながら、「今日も元気に起こしてくれてありがとう」とだけ伝えるんですけど。
私は10代の頃、本当に生きている意味が分からなくて、電車が来たらいつ飛び込もう、高いところから飛び降りれば簡単に死ねるかな、ということばかり考え続けていたので。その時に映画がポーンと自分のもとに来てくれたんです。一生懸命自分のルーツを探り、父親とは何か、養母の存在とは何かという日常にカメラを向け続けて作った映画が、私の見ている世界を変えてくれた。そして、自分と関わってくれる人がいること、それこそが「生きていて良かった」ということだと思えるようになった。だから、この2人に見てほしい。見てくれるかな。
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「文藝春秋」11月号及び「文藝春秋digital」掲載の対談「五輪映画でコロナを描きたい」では、映画を受けて、有働由美子さんが、かつて不妊治療をしていたことを告白。また、河瀨監督が五輪延期の報せを受けたときのエピソードや、コロナ禍にもかかわらず「なら国際映画祭」を開催した理由、そして世界の観客を魅了する映画作りの秘訣などについて語り合っている。
「コロナ禍と人類の一歩を描きたい」