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「おいしい肉まんをつくってあげます」 中国人毒婦がコタツを囲んだ“鈴木家最後の晩餐”

『中国人「毒婦」の告白』#3

2020/11/19
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茂さんの弟から驚くべき証言

 しかし一方で、詩織の来日の経緯については鈴木家にも大いに言い分があった。そのあたりの事情を茂の2歳下の弟が詩織を裁いた法廷でこう述べていた。

 まず検事から茂が訪中、結婚の約束をし、詩織が来日するまでの様子を聞かれた弟は、こう答えている。

「(来日までに)約1年くらいあって、その間、兄は彼女にお金を送金したりしていたようだ。送金の理由は彼女が日本語の勉強をするとか運転免許証の取得にお金がかかるとか、いろいろなことだった」

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※写真はイメージ ©️iStock.com

 さらに弟からはこんな驚くべき証言も飛び出した。

検事 茂さんは被告人がいつ来るか(来日)ということで気をもんでいたようなことがあったのですか?

 ありました。それで成田(空港)に迎えに行くときには(詩織が)来たら、すぐそのまま(成田から中国に)帰ってもらうつもりでした。

検事 なぜ消極的な考えに?

 すぐ来てくれなかったからと思います。

検事 家を出るときお兄さんはどんなことを言ってましたか?

 来たら、そのまま(中国に)帰すと。

検事 その後は……。

 (詩織を千葉の実家に)連れて帰ってきました。

事 会ってしまったら「帰って欲しい」と言えなくなった。

 ええ、そうだと思います。

 人生にifはないが、もし、この時、茂が成田空港で最初の「決意」のごとく詩織をUターン帰国させていたなら、その後の事件も不幸も起こらなかったかもしれない。

※写真はイメージ ©️iStock.com

 一方で「支払われるはずの金が支払われない」と不満を抱えた詩織。それでも来日したのは、愛のない結婚ではあるが、永住権を取り、日本国籍が得られれば未来はバラ色になると信じていたからだろう。

 だから不満もあったが、それでも茂の両親との4人の生活にも、すこしずつではあるが慣れ始めた。

 来日まもなく近くの工場でパート勤めも始めた。ゆっくりではあったが、夫婦生活は軌道に乗りつつあり、一瞬幸せに向かって進んでいるようにさえ見えた。

 しかし、詩織の来日から1年3ヶ月後の1995年師走。最初の事件が起きた――。

中国人「毒婦」の告白

田村 建雄

文藝春秋

2011年4月20日 発売

「おいしい肉まんをつくってあげます」 中国人毒婦がコタツを囲んだ“鈴木家最後の晩餐”

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