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外に目を向ける必要のない男の余裕
本能でオスとメスとして選び合い、番いとなる。そこから一人のメスにいかに心血を注げるかというフェーズに移った瞬間、それは本能からダンディズムに変わる。野性味の次のステップには、ダンディズムがあるのだ。
僕は、こんな巨大里芋のような見てくれにもかかわらず、ほんの少しだけモテる。芸人として何の実績も持たず、残念ながらウィットにも富んでいない。ではなぜモテるのか。余裕だからだ。
僕には真由美という妻が、女性がいる。超絶対的な女性だ。真由美には今日もモテていたいし、明日もモテたい。時に、昨日はちゃんとモテていただろうかと不安にすらなる。そんな一生をかけて追い続けるべき女性が僕のことを強く愛してくれているという。これはすごいことだ。メディアで慌てふためく姿を度々見せてはいるが、実は人生という大きな基盤の上では、僕は圧倒的に余裕なのだ。
一人の女性をいかに深く愛せているか、そして愛されているか。外に目を向ける必要のない男の余裕。そこから滲み出るダンディズム。外でモテる必要のない所作だからこそ外でモテてしまうという、色気を孕んだ美しい矛盾。
さあ、一緒にモテなくても平気な男になって、モテてみないか。
愛のインフルエンサー
「夫婦仲良しキャラでメシが食いたいんだろう」。こうした噛みつかれ方をよくされる。
家庭の話をメシの種にするのが別に悪いことだとは思わない。しかし残念ながらメディアで需要があるのは愛妻家よりも鬼嫁話だ。鬼嫁エピソードは笑いにも共感にもつながりやすい。最後に泣ける話を放り込めば、フリが効いてる分、感動が5倍にも10倍にも膨らむ。