結婚14年目を迎える現在もなお、“付き合って2カ月目の高校2年生カップル”ばりの熱量を維持した夫婦生活を送っているというアルコ&ピースの平子祐希氏。彼の大きな特徴は、 “平子り”と呼ばれる、自然と口をついて出るセンスに満ちた“イタい”発言だ。
自身の結婚観について著した『今日も嫁を口説こうか』でも“平子り”はとどまる所をしらない。しかし、愛についての“平子り”は、バカバカしいだけでなく、幸せに夫婦生活を送るうえでのさまざまな気づきを与えてくれるものだった。同書より、愛についての深遠な彼の思索を引用し、紹介する。
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「飽きた」なんて傲慢、一日として同じ顔をしてる女などいない
夫婦間の悩みで定番なのが「生活を共にするなかで、相手に飽きてしまった」というものだ。
飽きるという感覚は「相手の全てを知り尽くした」「全てが自分のものになった」という錯覚からくる、これ以上にない傲慢な思い込みだ。そもそも一日たりとも同じ顔をしている女性などいない。
七変化どころの話ではない。日替わりどころか、なんなら分単位で変化していく。どれだけ掘っても掘っても掘り尽くせない。それが女だ。それを「飽きた」などと豪語してしまうのは、そうした秘めた側面を見せてもらえないことへの言い訳、その変化についていけない事実から自分を守る保険でしかない。
夫という立場でも知りえない妻の表情がある
奥様が電話応対するときの声を思い出すといい。自分と話すとき。子供の担任の先生の場合。地元の友人。宅配業者。おそらく相手によりけりで無限に声色を使い分けているのではないだろうか。
表情もそれと同じこと。自分が認識している表情がその人間の全てであろうはずがない。本当にごくごく一部なのだ。
僕はスーパーでの買い物中、食材を吟味する妻をわざと離れた位置から眺めるのが好きだ。鶏肉を吟味する真由美。店員さんに質問する真由美。レジでクーポンが見つからず慌てる真由美。
スーパーという限られた空間ですら、その時々で全く異なる表情を見せている。僕がいないのに気づき、不穏な表情を浮かべ、店内を見回す真由美。そして僕を見つけ笑顔で手を振るその瞬間、僕がよく知る真由美の表情に戻る。これが僕のいない外でともなれば、それはもう僕の知らない女性に等しい。
僕の携帯電話に登録されている真由美の名前は旧姓のままだ。電話がかかってくる度にその旧姓が表示され、「あくまでも僕らは他人なんだ」と緊張感が戻ることができるから。
僕らが普段目にし、「もう飽き飽きだ」などと思っている妻の顔など、ほんの数パーセント。まさに井の中の蛙状態。ジュディ・オングが「~女は海」だと歌っているが、大海のごとく広く深い表情のそのほとんどを僕らは知らずに死んでいく。知り尽くせないものを飽きることなど、どうしてできようか。