「北海道日本ハムファイターズ」を見て、野球の夢を育んだ世代
苫小牧駒澤大は広大なキャンパスを有していた。ドラフト会見場となった大講堂はどこかなぁとキョロキョロするが、初めてでよくわからない。HBCの渕上紘行アナはどこで『ドラフト緊急生特番! お母さんありがとう』を撮ってたのか。と言ってる間に大変なことが起きた。正門バス停に道南バスが来たのだ。これは苫小牧駅のほうへ戻るバスだ。ぜんぜん時刻表を見てないが、できたら乗って苫小牧中央高の近くに行きたいなーと思ってたやつだ。もう、僕は太川陽介と蛭子能収のバス旅みたいだった。「待って待ってー!」と叫びながら道南バスに飛び乗る。だから苫小牧駒澤大の思い出はぺらぺらに薄い。
道南バスの運転手さんに訊いて桜木3丁目バス停で下車、そこから徒歩で線路を越え苫小牧中央高を目指す。高校野球で苫小牧といえば誰しも夏の甲子園連覇の駒大苫小牧を思い浮かべるだろう。根本悠楓は苫小牧中央高で初めてドラフトにかかった選手だ。といってもアマ球界では知る人ぞ知る存在だった。白老白翔中時代、「全中」(全国中学校軟式野球大会)を制した実戦派左腕なのだ。侍ジャパンU-15代表にも選ばれて、アジア選手権の最優秀投手賞に輝いている。
もちろん根本悠楓も子どもの頃からファイターズを見て育った。白老白翔中時代、大谷翔平の二刀流日本一(16年)を見ている。ファイターズはもう1人、道産子選手の今川優馬(JFE東日本)を6位指名したが、今川に至ってはファンクラブ会員(継続とのこと!)だ。つまり、どういうことかというと、ついに「北海道日本ハムファイターズ」を見て、野球の夢を育んだ世代が入団してくるのだ。北海道に蒔(ま)いた野球の種が芽吹いて花を咲かせた。
苫小牧中央高の校門前で記念写真を撮った。併設された幼稚園の看板を見る。この学校で生徒がドラフト指名されたら、もう大変な騒ぎだったろう。それにしても根本悠楓も同級生たちも、物心ついたときからファイターズは北海道にあったんだなぁ。
無事、ウヒョヒョ訪問を完了して、15時フェースオフ、王子白鳥アリーナのアイスホッケーの試合に向かうのにちょうどいい頃合いだった。また偶然、路線バスが来ないかなぁ、タクシーでもいいし。とにかく大通りに出てみようと歩いてたら苫小牧市のマンホールを見かけた。有名な話だが、氷都・苫小牧のマンホールの蓋にはアイスホッケーの絵がついている。
僕は北海道スポーツの平成史を想った。少子化の影響もあるけれど、今、日本一の氷都・苫小牧でもアイスホッケーをする子は激減している。昭和の昔なら血の気の多い、運動神経のいい子はみんなアイスホッケーだったという。事情が大きく変わったのは「たくぎんショック」以降だと言われている。景気が冷え込んだ。夫婦共稼ぎの家庭が増えた。アイスホッケーはスティックや防具にお金がかかるのだが、もうひとつ大事な点がある。親御さんの協力が欠かせないのだ。荷物が多いからクルマの送り迎えが必要だし、学校リンク(校庭などを凍らせて練習場をつくる)の設営も担当する。
共稼ぎ家庭にはちょっと難しいのだ。その点、少年野球やサッカーは勝手に行って勝手に帰ってきてくれるから助かる。また平成はファイターズとコンサドーレが夢を描いた時代だ。ファイターズの夢、コンサドーレの夢が子どもたちに連続していく。
苫小牧の学校から2人の道産子プレーヤーが出た。マンホールの前で何かしみじみしようと思ったら、向こうのバス停にまた道南バスが来ている。本数を考えたらこれは奇跡的な太川陽介なのだ。「待って待ってー!」。苫小牧中央高の思い出もこうしてぺらぺらに薄い。
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