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「人が人を好くとは、考えてみれば、あやういことです」 川上弘美が『伊勢物語』を蘇らせた

イザベラ・ディオニシオが『三度目の恋』(川上弘美 著)を読む

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『三度目の恋』(川上弘美 著)中央公論新社

 悲恋、諸恋、狂恋……恋の形は実に様々だ。その本質をとらえようと、古来の文学者が大いに、空想に耽り、数えきれないほどの美文をしたためてきたのだが、それでもなお、「恋」というものは依然として不可解のままだ。こうした中、本稿で紹介する『三度目の恋』という小説は、その謎を解く新たな手がかりになりそうだ。

 主人公の梨子(りこ)は初恋の相手である原田生矢(なるや)と結婚する。しかし、独特の魅力を放つ彼には、いつだって他の女の影がちらつく。結婚生活に煩悶する日々が続き、やがて梨子は夢の中で別の女性として生きるようになる。あるときは吉原で逞しく働く遊女になり、あるときは平安時代の洗練された女房になり、夢とうつつをさまよいながら、彼女は愛や人生について学んでいく。そして、時空の往還を繰り返しているうちに、特別な縁で結ばれている高丘という男性や在原業平らしき人物と度々巡り会う。

 本作は、『伊勢物語』をモチーフとして書かれたそうだが、そのサブテキストの跡が随所にちりばめられている。第6段の「芥川」というエピソードが数回言及されていたり、『伊勢物語』の本そのものが遊女たちの部屋にさりげなく置いてあったり、業平本人まで登場したりしている。しかし、単純な時代差し替えや引用にとどまらず、『伊勢物語』の成分を全く違う形で蘇らせているのが本作の読みどころだ。

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『伊勢物語』は、長い間嫁入り道具の一つとして使われていたそうだ。燃え尽きる情熱も、安定した愛情も、確かな信頼も、新たな人生を始めようとする夫婦に必要な知識が全部その中に詰まっていたからだ。それと同様に、『三度目の恋』の中にも心に正直に生きようとする人物がいく人も登場し、1000年もの月日を飛び越える壮大な恋愛劇が織り成されている。

 平安時代の絵巻物に描かれている人物はだいたいみんな同じに見える。女性は鮮やかな着物に覆われて、顔はたおやかな黒髪に隠されている。梨子も同じだ。生矢を愛すること以外、これといって特徴がない。しかし、夢の世界での不思議な旅に出てから、彼女の輪郭が鮮明に浮かび上がり、ページからはみ出る存在になっていく。そこまで成長した梨子は、生矢に対する純粋な恋と、高丘との深い繋がりを経て、最後にそれに続く「三度目の恋」に想いを馳せる。それは妄想の中の恋か、もしくは現実にしっかりと根を下ろした関係か、あるいは自分自身を愛することなのかもしれない。

「人が人を好くとは、考えてみれば、あやういことです」と文中に書かれている。静かに流れているその言葉を読んでいると、万年雪のごとく凍って、誰しもの心の中に固まっている澱のようなものが、少し溶け出す。愛するという不思議な旅の着地点はみんなそれぞれ違うけれど、本作はその第一歩を踏み出す勇気をくれるような気がする。

かわかみひろみ/1958年東京生まれ。作家。96年「蛇を踏む」で芥川賞、2001年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、15年『水声』で読売文学賞など、受賞多数。19年、紫綬褒章受章。他の作品に『神様』『森へ行きましょう』『某』など。
 

Isabella Dionisio/イタリア生まれ。ヴェネツィア大学で日本語を学んだのち、来日。著書に『平安女子は、みんな必死で恋してた』。

「人が人を好くとは、考えてみれば、あやういことです」 川上弘美が『伊勢物語』を蘇らせた

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