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群馬県過失運転致死事件 なぜ88歳の被告人は自ら「逆転有罪」を求めたのか

2020/11/23

genre : ニュース, 社会

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刑事罰を受けることだけが「罰」なのか

 A被告人の想いは弁論の朗読によって明らかになりました。

 ただ裁判って、本人も望んでいるから有罪でいいでしょ……とはいかないわけで。あくまでも採用された証拠を見てジャッジするものなので、前橋地裁の判断を覆すほどの証拠があるのか、最終的には裁判官がどう判断するのかは11月25日までわかりません。一審の通り無罪なのか、今回の証拠によって有罪になるのか、はたまた一審差し戻しで前橋地裁の裁判をやり直すことになるのか。

 このA被告人の控訴審初公判の4日前には名古屋高検の検事長だった被告人による車の暴走で男性が亡くなった事故の過失運転致死の論告が、控訴審初公判の2日後には旧通産省工業技術院の院長だった被告人による車の暴走で母子が亡くなった事故の過失運転致死傷の初公判が東京地裁で行われました。高齢者のドライバーによる死亡事故の裁判が、偶然にも同じ建物内で1週間に3件も開かれた事になります。

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 事件や事故は1件1件違うので被告人の主張を並列して簡単に比較することは出来ないけど、3人とも有罪か無罪かを争っている被告人という意味では共通しています。事故の原因が自分にないなら無罪を主張するのは当然だし、証拠によってその主張が認められれば無罪判決が言い渡されるのも当たり前の話です。

 ただA被告人は、事故原因が車の不具合という主張でも無いし、無罪判決に不服で控訴しているという、上記の2人とは全く違う主張なんですよね。だからこそ本人の口から述べてほしかったなぁ、と。無罪判決のままでは謝罪は出来ないのか、責任を取ることは出来ないのかと。自分のしたことに向き合ってるのは十分に伝わってるんですけどね。遺族と被害者が求めてる有罪と被告人が求めてる有罪では意味合いが違ってきてる気がして。

「償い」とはなんだろうかと考えさせられる裁判だった ©️文藝春秋

 必ずしも刑事罰を受けることが償いになるとは限らないんじゃないかなぁと考えさせられた裁判でした。

群馬県過失運転致死事件 なぜ88歳の被告人は自ら「逆転有罪」を求めたのか

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