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 予見的な言葉といえば、ほかにも、終戦から7年後の1952年に書かれた「血と迷信」と題する小文(※3)には、《新憲法や新皇室典範で天皇の譲位を認めていないのは、人間天皇の最少の基本的人権さえ認めないものである》という一文が出てきて、ハッとさせられる。

天皇に関しての‟タブー”にも切り込んだ大宅

 天皇に関しては、大宅の活躍した時代のほうが、いまよりよっぽどタブーがなかったのではないかと感じるところもある。同じく1952年に出版された書き下ろし『実録・天皇記』では、天皇家の血筋が絶えないよう、いかに引き継がれてきたかを詳細に調べることで、戦前において天皇権力の根拠とされた「万世一系」のウソを暴いてみせた。

『実録・天皇記』ではタブーなく天皇家に切り込んだ大宅

 このあと60年代には右翼テロがあいつぎ、マスコミでも天皇に対するタブーが強まる。そう考えると、『実録・天皇記』はあの時代だから成し得た仕事なのかもしれない。

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 大宅自身は、反天皇主義者でも、天皇主義者でもなかった。若いころには、マルクス主義に傾倒したこともあったが、どこか醒めてもいたようだ。

 ある事件で検挙されたときには、特別高等警察の刑事から「きさまは得体の知れないやつだ。右か左かはっきりしろ」と言われて、「あなたのほうで決めてください。じつは、僕自身にもよくわからないんですよ」と答えたという。以来、彼は、いかなる主義主張にも同調しなくなった。

マスコミの寵児となった大宅 ©文藝春秋

 戦時中から終戦直後にかけて「文筆的断食」と称して農耕生活を送ったのち、世の中が少し落ち着き出すと著述活動を再開する。世の中では民主主義と共産主義がブームになるなか、彼は再出発にあたって、《厳正中立、不偏不党、徹底した是々非々主義で押し通すこと》にした(※4)。

 非イデオロギーを貫き、平衡感覚を保ちながらも、独特の視点と表現で、日々登場する人物や社会現象の本質をずばり突いてみせた大宅は、マスコミの寵児となる。新聞、雑誌、そして放送と引っ張りだこで、「マスコミの三冠王」とも称された。社会党委員長・浅沼稲次郎は「カラスの鳴かぬ日はあっても、大宅壮一の声を聞かない日はない」と言ったとか(※5)。