大宅はいわば、現在の文化人タレントの先駆けであった。それは本人もはっきりと自覚していた。『中央公論』1955年5月号に寄稿した「無思想人宣言」という文章で、彼は自分の立場を、ラジオの野球解説のタレントになぞらえながら、次のように説明している。
「タレント=その道の専門家」という意味
《ラジオ放送には、アナウンサーのほかに“タレント”と呼ばれているものがある。例えば野球試合の実況を伝えるのはアナウンサーの役目だが、アナウンサーの質問に応じて、両チームの批評などをしたりするのが“タレント”である。“その道の専門家”という意味である。
ところが、今日の社会では、あらゆる面でこの“タレント”が必要になってきている。彼は監督の戦術上の誤りや、審判の誤審などを指摘したりすることはできる。しかし審判の判定に服しないチームに退場を命じたり、審判の誤審を正したりする権能は与えられていない。それでも自分の判断に自信のあるときは、これを世論に訴えることはできる》(※4)
大宅はこれに続けて、自分はプレーヤーにも、審判にも、コミッショナーにも、ただのアナウンサーにもなりたくない、あくまで《“タレント”であることに満足し、許されるならば、生涯それをつづけて行きたい》と書いた。そのうえで《最終のそしてもっとも有力な審判者は、目に見えない大衆だと信じている》と、この文章を結んでいる。
評論家、タレントである自分にできるのはせいぜい誤りを指摘して世論に訴えることぐらいで、世の中を最終的に動かすのは大衆であると、大宅は言いたかったのだろう。
前出の『実録・天皇記』を書くにあたっては、膨大な資料を収集した。神田などで古書の即売会があれば、大宅は、助手役の草柳大蔵(のち評論家)をともなって必ず出かけた。そうして入手した本を自転車の荷台に高々とくくりつけ、都内の八幡山にある自宅まで運んだという(※2)。
集めた資料からは、本で使えそうな部分を原稿用紙に書き写しながら、「血の網」「財産」「天皇屋紳士録」「女たち」などといったユニークな項目ごとに分類していった。書き写すうち、用意した項目に当てはまらないものも出てきて、そのたびに新たな項目がつくられた。
こうした資料収集・分類のノウハウを生かしたのが、大宅の亡くなった翌年、その膨大な蔵書をもとに設立された雑誌図書館・財団法人大宅文庫(現・公益財団法人大宅壮一文庫)である。