国内外で注目を集める画家・池田学さん。構想2年、制作に3年3ヶ月をかけた大作『誕生』を中心とした「池田学展 The Pen―凝縮の宇宙―」が日本を巡回、9月27日からは東京・日本橋高島屋にて開催される。インタビュー後編は、池田さんの知られざる「法廷画家」時代のお話を中心にお伺いした。

「誕生」2013−2016年 紙にペン、インク、透明水彩 佐賀県立美術館所蔵 300×400cm(東京・ミヅマアートギャラリーにて)

「キャプテン翼」をノートに描いていた少年時代

――池田さんはもともとサッカー少年だったそうですね。

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池田 そうなんです、自分が絵描きになるなんて全然思ってなかった。子どもの頃は外に出て体を動かすことが大好きで、小学校からサッカーに夢中でした。絵を描くのはもともと好きだったので、「キャプテン翼」をノートに描いてましたね。で、中学と大学はサッカー部です。

池田学さん 1973年生まれ

――高校はサッカー部じゃないんですか?

池田 高校は中学校の美術の先生に薦められて、佐賀県立佐賀北高校の芸術コースに推薦入学したんです。芸術コースは部活も美術部と決められていて、他の部に入っちゃいけないんですよ。だから、明けても暮れても美術の毎日でした。

――芸術コースは1学年何人くらいいたんですか?

池田 50人くらいで、そのうち半分が美術、もう半分が音楽と書道でした。そこから美大に行く人もいれば、美術教師を目指して教育大に行く人もいましたね。僕は2浪して藝大に入りましたけど、同級生でアーティストになったのは何人いるかな……。日本画を描いている同級生はいますね。あとはホンダで車のデザインをする仕事をしていたり、さまざまです。

「誕生」2013−2016年 紙にペン、インク、透明水彩 佐賀県立美術館所蔵 300×400cm

――展覧会では高校時代の恩師、金子剛先生に宛てた年賀状や絵手紙も展示されますが、池田さん、字が上手ですよね。

池田 え、そうですか? 特に習字を習っていたわけでもないんですけど……、でもよく言われたのが「画がうまい人は字もうまい」って。それは何となくわかる気がしていて、画も字も四角の中にどういう大きさで、どういう位置に形を並べるか、というバランスの問題なんですよね。あと、父が書く字は上手だったんです。そういう影響もあるのかもしれない。

初めて描いた法廷画は「松本智津夫」

――池田さんは2000年から朝日新聞で、裁判の様子をスケッチする「法廷画家」の仕事をされていましたよね。珍しいお仕事だと思うのですが、きっかけは何だったんですか?

池田 1995年に地下鉄サリン事件が起き、オウム真理教の麻原彰晃が逮捕されてから、一連の「オウム裁判」に向けて各メディアが藝大に法廷画家アルバイトを探しによく来ていたんです。とにかく人手が必要だった。そこで、藝大生だと時間もあるし、テクニックもあって描けるし、重宝されたんですよ。で、最初は同級生がやっていたんですけど、その子らが就職することになって僕に引き継いでくれたんです。

 

――けっこう長いこと法廷画の仕事を続けますよね。

池田 裁判は毎日やっていても、画が必要とされるものはほとんどないですからね。1ヶ月にいっぺん、3ヶ月にいっぺんという感じだから続けるというか、辞めるタイミングも特になかったんです。

――初めて描いた法廷画は何の裁判だったんですか?

池田 松本智津夫が出廷するオウム裁判です。

2003年4月16日付朝日新聞より

――いきなり大きな裁判だったんですね。

池田 確かに「あの麻原彰晃か……」という思いはありました。でも、そういう思いは「起立」と号令がかかって法廷内の全員が礼をして、法廷に松本智津夫が入ってきて被告席に座る、そこまでで終わる感じでした。変な喩えかもしれませんが、ヌードデッサンと同じなんです。女の人が入ってくるときはドキドキするんですけど、実際に脱いでポーズをとっちゃうと、絵を描くほうにとっては「ただのモチーフ」になってしまう。オウム裁判に限らず、殺人事件の公判などでもそうでしたが、被告の入廷までは「凶悪な事件を起こした人間というのはどんな人なんだろう」という思いを持ちます。でも、いざスケッチを始めたら、そんなことを考える余裕がないんです。事件の内容がどんなものだったとかは頭から消えて、ただ即物的に、描くことに専念しなければならない。