マラドーナは不正義に対して敏感な人々の代弁者
「彼は私とそっくりで凄く感情的な人間だ。私の作品では『黒猫・白猫』が好きだと言ってくれた。彼が私の作品に出演してくれることがとても嬉しい。観客が人生を素晴しいと感じてくれることを願っている。人間を悲しみから救う、楽しい映画にするよ。もちろん。キューバで撮って来る。CIAにとってはいい映画になるだろうな(笑)。全てがその映画に凝縮されている。貧しい人間のことをいつも考えている人々、もしくは世界で行われている不正義に対して敏感な人々。それらを扱うような映画。その代弁者としてマラドーナが出てくるわけだ」
冷戦後の大国の思惑によって祖国ユーゴに分断が持ち込まれ、崩壊に至った過程を知る映画監督と、無辜なるスタンスから、米国大統領への批判を厭わないサッカー選手が惹かれ合うのは必然とも言えた。
クストリッツァは当初この映画をマラドーナの生まれ育った貧民街、フィオーリを絡めて「フィオーリを忘れるな」とする予定でいたが、2008年に「マラドーナ」というタイトルで公開した。今、観直してみると、スーパースターとして巨万の富を稼ぎながら、いわゆる西側の物質的な価値観に浸食されずに、不正義に怒るマラドーナを確かに画面から感じることができる。
特権階級として生きるよりもひとりの善良な人間で
一般大衆とともにデモに参加し、チャベスやモラレスといったラテンアメリカの反米指導者と行動を共にする。マラドーナはガザを無差別攻撃するイスラエル軍を強く抗議してパレスチナ人に寄り添い、イラク戦争にも毅然と反対の意を唱えた。
昨今、アスリートの政治的と取られる発言は非難を浴びるが故に、特にセレブは金持ち喧嘩せずで、社会問題に口を閉ざし沈黙を続ける。しかし、マラドーナはいつでも自分の立ち位置を旗幟鮮明にしていた。大国のエゴには怒りを露わに、弱者の味方であることを貫いた。生涯FIFA(国際サッカー連盟)とも距離を取り続けたが、それはまた国際競技団体の利権とも無縁であったことを示す。それは政治というよりも人道の立場からであった。特権階級として生きるよりもひとりの善良な人間であり続けることをクストリッツァは看破していたとも言えよう。
映画のラストの曲はこんな歌詞で終わる「ああ、マラドーナのように生きたい」。