11月25日、ディエゴ・マラドーナが亡くなった。サッカー界におけるその実力と功績は今更、挙げる必要は無いだろう。母国アルゼンチンの枠をはるかに超えて、世界中からその存在の重さは自明となっていた。
ユーゴ代表としてのドラガン・ストイコビッチのワールドカップにおける最高のパフォーマンスは90年W杯イタリア大会のアルゼンチン戦にあると思っているが、その際、ベオグラードのスポーツ誌「テンポ」はピクシーのパフォーマンスを讃えるにあたり、「ドラガン・マラドイコビッチ」という見出しを掲げた。自国のエースがマラドーナに近づいたという意味であり、天才の基準はあくまでもマラドーナ。東欧のブラジルと言われたテクニシャン揃いのユーゴスラビアのサッカーシーンにとってもディエゴはそれだけ別格だった。
「マラドーナを世界が忘れてしまった善人として描きたい」
筆者は2005年にエミール・クストリッツァ監督のインタビューにモンテネグロの港町ヘルツェグ・ノヴィに向かった。主に過去の作品と旧ユーゴ情勢について聞いたのだが、思わぬことに、そこで監督からマラドーナのドキュメンタリーを撮影していることを聞いた。カンヌ映画祭の審査委員長を務めたばかりの巨匠は「マラドーナを世界が忘れてしまった善人として描きたい」と言っていた。当時は少し不思議な気がしたが、今となってはよく分かる。クストリッツァは2018年、「世界でいちばん貧しい大統領」ホセ・ムヒカを撮るのだが、米国の覇権主義やグローバル化のもたらす新自由主義に抗う人物ドキュメンタリーの端緒が、このアルゼンチン人であったのだ。当時の取材ノートに記したリスペクト溢れるクストリッツァの語録から、マラドーナを偲びたい。