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「ネットで社会は変わる」という思いが失望に変わるまで…東浩紀が明かす「ゲンロン」での苦悩

『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』より #2

2020/12/08
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 いずれにせよ、ゲンロンを創業するまえの2000年代には、まだネットにも期待していたし、若い世代にも期待していた。ゲンロンはそういう空気のなかでつくった。けれども、じっさい組織をつくって運動を始めてみたら、ぼくはどんどんネットにも若い世代にも失望していくようになった。2010年代はぼくにとってそういう10年でした。

本物の人生はべつにある?

 それでも、オルタナティブへの渇望だけは残り続けました。

 さきほど創業時に『朝まで生テレビ!』に出ていたという話をしましたが、それだけではありませんでした。ぼくは大学でもちゃんと職探しに成功していて、2010年から13年にかけて早稲田大学の任期付き教授として働いていました。ちなみにそのときの教え子のひとりが、これからしばしば登場するゲンロンの社員で、いまは取締役になっている徳久倫康(とくひさのりやす)くんです。

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©iStock.com

 またぼくは論壇でも評価されていて、2010年から11年にかけては朝日新聞の論壇時評も担当していました。これはかなりの抜擢だったと聞いています。加えて2010年には、はじめて書いた長編『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、2009年12 月)で三島由紀夫賞を受賞しました。批評家の小説がプロに評価されることはあまりないので、かなり話題になりました。ひとことでいえば、30代も終わりを迎えて、人生上り調子で、収入も増えていたわけです。

メインストリームに対する居心地の悪さ

 そんななか、娘もまだ小さかったし、会社経営に乗り出す必要はどこにもありませんでした。というか無謀です。最近、妻(ほしおさなえ)によく止めなかったねといったら、止めたけど聞かなかったのだと苦笑されました。

 当時の焦りを思い出すのはむずかしいのですが、ぼくはたぶん、なにか強い居心地の悪さを感じていたんだと思います。メインストリームに対する居心地の悪さです。

 早稲田大学、朝日新聞、三島賞。いずれもメインストリームです。アカデミズム、ジャーナリズム、そして純文学。ぼくが好きなのはオルタナティブであることなのに、いつのまにかメインストリームのど真ん中にいて、世間的な役割も求められ始めていました。それを果たせばお金も手に入るのだろうし、偉くもなるのだろう。でもそれは本物の人生ではないのではないか、という危機感がありました。それこそが、ゲンロンの出発点にあったものです。

「ネットで社会は変わる」という思いが失望に変わるまで…東浩紀が明かす「ゲンロン」での苦悩

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