『鬼滅の刃』の「藤襲山の異形の鬼」を、とりあえず彼を天保年間の末年、天保14年1843年の生まれだとする。
この時代、ものすごく「改元」が多い。
生まれたのは「天保」年間。
1歳のとき「弘化」に改元。
5歳のとき1848年に「嘉永」に改元される。
11歳のとき1854年「安政」に改元される。
17歳のとき1860年に「万延」と改元。
次の年18歳のときに「文久」に改元。
21歳のとき1864年に「元治」に改元。
また翌年の22歳のとき1865年に「慶応」に改元。
そして、次の改元を待たずに、鱗滝に捕獲され、藤襲山に幽閉される。
何年か経って「明治」への改元を知ったのだろう。
それから40年余、竈門炭治郎に出会い「大正」への改元を知る。
たとえば、そういう経歴となる。
幕末のこの時期は、徳川時代でもっとも改元が連続した時期である。
慶応年間に青年になっているのなら、7回の改元を経験している可能性がある。そのうち少なくとも4、5回の改元は覚えているはずだ。
45年続いた明治は、異様な年号
ただ、明治の改元で制度が変わった。
ひとりの天皇の在位期間中は年号を変えないという「中国の明帝国が採用し、清帝国が継続しているシステム」を採用した。おそらく中国皇帝のような「時までを支配する」という権力を持たせようという目論見だったのだろう。
制度が変わり、「明治」という年号は、とてつもない長さになった。
30年を越え、40年を越え、45年続いた。日本人がこれまで経験したことのない異様な年号である。
明治より前、徳川時代で長かった年号といえば、暴れん坊将軍・吉宗のころの「享保」が21年、また三代家光のころの「寛永」も21年である。幕末から見たらかなり遠い昔、おそらくそんな知識のある人はあまりいなかったであろう。
藤襲山の鬼が生まれたころの「天保」が15年、その前の「文政」が13年、そしてその前の「文化」も15年で、このあたりが少し長いくらいである。
つまり明治すぐの大人は(藤襲山の鬼と同世代は)「年号は長くて15年ほどのもの、短いと1、2年で変わる」という感覚を持っていたはずである。
“一世一元の制になったから、明治という元号は長いものになるだろう”とは明治の初年には、誰も想像していない。それは無理だ。
そのことはいまでも簡単に推察できる。考えて欲しい。
「いま『令和2年』ですが、あなたは令和が何年まで続くか、きちんと予想できますか」