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《鬼滅の刃》「年号がァ!! 年号が変わっている!!」と異形の鬼は本当に怒るのか問題

2020/12/05
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 できるわけがない。そもそも畏れ多くて、そんなこと考えちゃいけないんじゃないかと、令和の時代であってもおもってしまう。「より長かれと願います」というのがまっとうな態度であって、一世一元制下で暮らす者は「この年号は何年までつづく」という予想を口にしてはいけないのである。(礼儀として、いけない)

 そもそも、藤襲山に幽閉されていたなら「明治からの元号は一世一元になった」と鬼は知り得ないのではないか。本来ならそのはずである。

 ただ、あるとき、捕まえて食べようとした少年剣士が「明治の新しい世」を滔々と語り、興味を持った鬼が最後まで聞いたことがあったかもしれない。

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大正時代には、蒸気機関車も一般化していた 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 特報第二弾より

「薩長による新政府は天皇を国の中心に据え、在位しているかぎり年号が変わらなくなった」ということを鬼が知っていた可能性はある。

鬼にとって改元は5回目と6回目?

 でも、鬼の叫びの中心は「まただ!」にある。

「幽閉中に、明治と大正と二回も改元があった」というのが彼の恨みのもとである。

 ところが、これは彼にとって「覚えてるかぎり人生5回目の改元と6回目の改元」(4回目と5回目かもしれないけどそれ以下はないはず)である。

 そういう「人」はたぶん、「まただ!」とは怒らない。

 改元を何回か経験するのは、彼らの世代にとってはふつうのことだったのだ。

「改元」に対する感覚が、天保生まれの人と、明治以降に生まれた人とでは、全然ちがっている。そこが見落とされている。

「改元を二つ越えるのはとても長い時間」という感覚は昭和以降のものだろう。昭和が明治を越える長さになったことを知ってる人のみが「改元二つは長い」と咄嗟に言い切れる世代だとおもう。

 明治政府は、「時間」を支配しようとして、かなり大きくいろんなことを変えた。

 そのため変革の前と後では、時間に関する感覚がまったくちがっている。

 むかしを想像するときは、そういうことも気をつけると、ちょっとおもしろいという、そういう話である。

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』予告編より

できれば炭治郎のように生きてみたい

 ただ、これは『鬼滅の刃』作品の瑕疵ではない。

 この鬼が「ふつうの天保生まれの人間だったら」という仮定で、推察しただけだ。

 鬼は鬼だ。人ではない。鱗滝に捕まって幽閉され、「長く続いた“明治”という元号」までも変わったと知って、むやみに怒り狂っていて、べつに何の問題もない。そもそも鬼なのだから、慶応以前の改元をすべて忘却している可能性もある。(多くの鬼は、人間のころの記憶が曖昧になっている)。この鬼には理屈は存在しないのだ。

 だから物語はこのままで問題はない。

「大正への改元」から、現代人が見落としがちな「昔の感覚」を想像してみたばかりだ。

『鬼滅の刃』の凄さは、鬼の創出にある。長く生きる鬼、というのはとても恐ろしい。

 今回はちょっと炭治郎ぽく、鬼について「人だったころ、どんな人生を送っていたのだろうか」と少し想像したまでである。

 できれば炭治郎のように生きてみたいと、ときどきおもう。(彼の無意識層を映画館で見てからは特にそうおもう)。

《鬼滅の刃》「年号がァ!! 年号が変わっている!!」と異形の鬼は本当に怒るのか問題

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