できるわけがない。そもそも畏れ多くて、そんなこと考えちゃいけないんじゃないかと、令和の時代であってもおもってしまう。「より長かれと願います」というのがまっとうな態度であって、一世一元制下で暮らす者は「この年号は何年までつづく」という予想を口にしてはいけないのである。(礼儀として、いけない)
そもそも、藤襲山に幽閉されていたなら「明治からの元号は一世一元になった」と鬼は知り得ないのではないか。本来ならそのはずである。
ただ、あるとき、捕まえて食べようとした少年剣士が「明治の新しい世」を滔々と語り、興味を持った鬼が最後まで聞いたことがあったかもしれない。
「薩長による新政府は天皇を国の中心に据え、在位しているかぎり年号が変わらなくなった」ということを鬼が知っていた可能性はある。
鬼にとって改元は5回目と6回目?
でも、鬼の叫びの中心は「まただ!」にある。
「幽閉中に、明治と大正と二回も改元があった」というのが彼の恨みのもとである。
ところが、これは彼にとって「覚えてるかぎり人生5回目の改元と6回目の改元」(4回目と5回目かもしれないけどそれ以下はないはず)である。
そういう「人」はたぶん、「まただ!」とは怒らない。
改元を何回か経験するのは、彼らの世代にとってはふつうのことだったのだ。
「改元」に対する感覚が、天保生まれの人と、明治以降に生まれた人とでは、全然ちがっている。そこが見落とされている。
「改元を二つ越えるのはとても長い時間」という感覚は昭和以降のものだろう。昭和が明治を越える長さになったことを知ってる人のみが「改元二つは長い」と咄嗟に言い切れる世代だとおもう。
明治政府は、「時間」を支配しようとして、かなり大きくいろんなことを変えた。
そのため変革の前と後では、時間に関する感覚がまったくちがっている。
むかしを想像するときは、そういうことも気をつけると、ちょっとおもしろいという、そういう話である。
できれば炭治郎のように生きてみたい
ただ、これは『鬼滅の刃』作品の瑕疵ではない。
この鬼が「ふつうの天保生まれの人間だったら」という仮定で、推察しただけだ。
鬼は鬼だ。人ではない。鱗滝に捕まって幽閉され、「長く続いた“明治”という元号」までも変わったと知って、むやみに怒り狂っていて、べつに何の問題もない。そもそも鬼なのだから、慶応以前の改元をすべて忘却している可能性もある。(多くの鬼は、人間のころの記憶が曖昧になっている)。この鬼には理屈は存在しないのだ。
だから物語はこのままで問題はない。
「大正への改元」から、現代人が見落としがちな「昔の感覚」を想像してみたばかりだ。
『鬼滅の刃』の凄さは、鬼の創出にある。長く生きる鬼、というのはとても恐ろしい。
今回はちょっと炭治郎ぽく、鬼について「人だったころ、どんな人生を送っていたのだろうか」と少し想像したまでである。
できれば炭治郎のように生きてみたいと、ときどきおもう。(彼の無意識層を映画館で見てからは特にそうおもう)。