企業という村に毎日通勤して、村の中の論理だけで働き、報酬を得る。これがあたりまえだった時には、働くということはそれほど難しいものではなかった。働くことの意味合いの多くが、会社組織の一員であるという安定的な基盤の上に成り立っていたからだ。
格差の広がりと世襲
働く場所が基盤ならば、なるべく大きく強固なほうがよい。それはすなわち大企業であるほど安心だという理屈になる。就活をしている大学生の思考パターンはまさにここにある。
日本ではいつの頃からか、良い家に生まれて、多額の教育費を惜しげもなく注ぎ込まれて良い学校に入り、良い会社であるはずの大企業に無事、就職するというのが、人生の成功パターンになっている。これはある意味エリート層の再生産をやっているようなものだ。この循環が長期にわたれば社会には新たな階級が生まれ、格差はどんどん拡大していく。
現在ではたとえば政治の世界でそうした弊害が指摘されている。先代の地盤を引き継いだだけの二世あるいは三世議員ばかりが国会を占め、民の本当の傷みや苦しみを理解できない、しようともしない政治に失望している人もいる。
切っても切っても同じ顔
実は大企業社会の中でも同じような閉塞感が出始めている。二世や三世社員が増えたというわけではない。同じような思考回路を持つ金太郎飴のような社員ばかりで組織が構成されるようになっているのだ。あたりまえである。これまでの学校教育では、言われたことを素直にやる子が高く評価されてきたからだ。特にテストでの成績偏重を改め、内申書を重視するようになってから、この傾向がひどくなったように感じる。以前は先生に逆らうヤンチャな一面を持っている子でもテストの成績が良いと一定の評価がなされた。ところが今はある程度内申書の評価を得ないと学校では評価されにくい仕組みとなっている。
そうした競争をくぐり抜けてきた、優秀であるはずの学生たちは、やはり安定基盤を持った大企業への就職に憧れる。採用する側もほとんどがこうした良い子たちで占められているので必定、自分たちと同じような種類の学生を採用してしまう。やがて組織は硬直化していくが、同様な思考回路の社員ばかりになってしまうと、そもそも硬直化しているという事態そのものにまで気が付かなくなる。いわゆる大企業病と称される状態に陥ってしまうのだ。