世界から遅れをとった日本
会社の上層部はよく、改革だ、下克上だと叫ぶ。とりわけ社長が交代になるとほぼすべての新社長は「わが社には今こそ改革が必要だ」と言う。「前社長の施策どおりにやります」などと言うと、何だか社長交代した意味がないのではと考えてしまうからだ。しかしどんなに気張った改革でも所詮大企業という村の中で起こることなどは、他所からみれば、おままごとに等しいレベルのものだ。
日本企業が世界中から称賛され、世界のマーケットを席巻していた時代はとうの昔に過ぎ去った。現在、世界をリードするのはGAFAと呼ばれるグーグル(アルファベット)、アップル、フェイスブック、アマゾンなどのITをベースとしたサービス業である。ところが今、日本企業で彼らに肉薄できる会社は存在しない。このGAFAにマイクロソフトを加えたGAFAMの時価総額をみると、すでに日本の東証一部企業の時価総額を超えている。日本企業からみれば、彼らはもはや視界にも入らない遠くを走っている。日本は平成時代にどうやら相当惰眠を貪ってしまったようだ。世界の急速な進歩から周回遅れになっているのは厳然たる事実だ。
原因は日本の“村社会意識”
ではどうして、この30年の間に日本企業は世界から置いていかれたのだろうか。その理由は、日本の大企業に蔓延する村社会意識のせいである気がしてならない。良い学校を出た学生の多くが、今そこにある良い会社、安定した基盤がある大企業に就職するのだ。同じような人種が同じような境遇で育ってきた学生を、同じような価値観、つまり村の論理にそぐう人物と評価して採用するからだ。
太平の世の中が続く限り、この方法にそれほど間違いはない。しかし、ビジネスの世界は時代の変化とともに急速に変わっていく。とりわけこの30年間は製造業のようなハード産業が、ITを利用したサービス産業に急速に取って代わられる30年だった。そこに日本は何の手も打てなかった。起業をする若者は少なく、良い学校を出た学生はあたりまえのように大企業にしか顔を向けない。みんながひとところに集まって、寄り添い、もたれあって仕事する。時代の変化には目をつぶり、小さくなっていく需要のパイを奪い合う業種で生きていく。日本は今でも人口が1億人を超えるマーケットが存在するので、まだ大企業同士で萎む需要を分け合うことができている。しかし、今後の発展は期待できず、大企業の中でもそろそろ寿命が尽きるところが出てきても不思議ではない。
いっぽうでこれからの時代、情報通信機器を駆使して、自らの能力、アビリティを武器に仕事をしていく人が増えていくと、必然、企業組織も変わらざるを得なくなる。大企業の村の論理は崩れ、組織を構成する堅固な中間組織は不要のものとなる可能性がある。頑なに村の論理を守ろうとする会社は、世界の競争からさらに引き離され、国内需要が萎み続ける中で完全に行き場を見失うところも出てくるだろう。