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 それは本当にギリギリで、ちょっとでもどこかにミスがあれば、乗っているかもしれない拉致された日本人ごと木っ端みじんにしてしまうからである。その思いが通じたはずは絶対にないが、工作母船は突然、停止した。

 停止した瞬間に、私の頭の中は真っ白になった。

 なぜなら、停止となれば、次は立入検査をしなければならないからである。しかし、「みょうこう」は立入検査をできない。私は教育訓練係士官である。訓練計画を立てる以上、下士官たちの練度はすべて把握しているが、そういうレベルの話ではなく、一回も立入検査の訓練をしたことがないのである。

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防弾チョッキなしで工作母船に乗り込めとは……

 もともと海軍の仕事は船の沈め合いがすべてだったが、90年代から武器による抵抗が予想される船舶に乗り込んで、積み荷の検査をしようという考えが世界的に広まり始めた。海上自衛隊もその流れに乗る形で研究を開始し、各艦にその資料を配付し始めた時期だった。

 だからまだ、艦内には防弾チョッキさえも装備されていなかった。訓練さえもできる状態ではなかったのである。

 それなのにいきなり北朝鮮の工作母船に乗り込め、というのだ。

©iStock.com

 携行する武器にいたっては、撃ったことはおろか、触ったこともない者がほとんどだった。なぜなら立入検査隊員は、1名の幹部以外すべて下士官であり、下士官は小銃の射撃訓練ならば普段から実施しているが、通常幹部が持つ拳銃は訓練したことがないからである。立入検査隊は、狭い艦内で使用することと、自衛のための武器という意味合いもあってか、携行しやすく取り回しもしやすい拳銃を持っていくことになっているのに、である。

 そんな彼らが、この真っ暗な日本海で相手の船に乗り込んで、北朝鮮の高度な軍事訓練を受けている工作員たちと銃撃戦をする。そして拉致されている最中の日本人を奪還してくる。そんなことできるはずがない。

 幸運に幸運が10回くらい重なって銃撃戦で工作員たちをねじ伏せたとしても、北朝鮮の工作母船には自爆装置が装備されている。どう考えても、立入検査隊は任務も達成できないし、確実に全滅する。

“戦死”の可能性が現実に

「海上警備行動が発令された。総員戦闘配置につけ」という副長の艦内放送の声で、立入検査隊員たちは食堂に集まってはいた。

邦人奪還』(新潮社)

 ついさっきまで、「平成の世の中で、海上自衛隊の俺が戦死?」「ありえない、ありえない」と話していた彼らだが、工作母船の停止で出撃が現実味を帯びだすと、いっせいに表情がこわばった。そして、全乗員の誰もが立入検査隊を派出したくないと思っているのに、みんなテキパキと動いて、とうとうすべての準備を整えてしまった。最後に個人装備品を装着するためにいったん解散し、10分後に食堂で再集合となった。

 この時に私の直属の部下で、手旗信号要員として立入検査隊に指定されている者が私のところに来た。赤白の小旗を一本ずつ持ち、カタカナの形を表し、通信する手旗信号を、海上自衛隊は現在でも使用している。

「航海長、私の任務は手旗信号なんです。こんな暗夜にあの距離で、手旗を読めるはずがありません。私が行く意味はあるのでしょうか?」

 すがるような目つきだった。正直、私も行く意味はないと思った。だが、口をついて出た言葉は、正反対のものだった。