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「200人の外国人娼婦が街にいた」

「外人通りのあの事件ね。知ってはいるけど、ここからちょっと離れているから、詳しいことはわからないですよ。あの辺りは、10年ぐらい前までタイ人とか外国人は多かったですよ」

 地元の女性の話によって、カンボジア人が売春を強要された店は、外人通りと呼ばれている場所にあったことを知った。

 外人通りと呼ばれる場所は、家族連れやカップルがひっきりなしに通り、ライトアップされた石畳とはうって変わって、温泉街の裏通りといった雰囲気を醸し出していた。石畳が伊香保の顔であれば、裏の顔といってもいいだろう。

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 事件が発覚した店の場所へ足を運んでみると、ドアの周囲には公共料金の請求書など、郵便物が散乱していて、営業している雰囲気はなかった。

 店の隣は射的屋となっていて、その隣にはタイレストランがあった。レストランのドアには張り紙があって、新型コロナウイルスの影響でしばらく休むと書いてあった。

 私の友人にかつてタイに暮らしていた豊川さんという人物がいる。タイの事情に詳しく私は取材でいつもお世話になっている。彼は関東近郊のタイスナックに通い続けることを生きがいにしていて、伊香保にも足を運んでいた。当然ながらカンボジア人に売春を強要していた事件のことも知っていた。

2011年当時の伊香保温泉の様子(豊川氏提供)

 私は今回の取材の過程で豊川さんにも話を聞いていた。

「カンボジア人の件で摘発されたのは、ヤクザが経営していた店で、2012年にも売春で摘発されています。カンボジア人を使う前は、タイ人と日本人を使って売春させていましたよ。その当時の店は『夢』という名前だった。新聞記事では店名不詳となっているけど、前回の摘発後、看板を出さずに営業していたからそうなっていたんでしょう」

 豊川さんによれば、伊香保の外人通りの全盛期はバブル期から長野オリンピックを経て2000年代初頭で、200人のタイ人を中心とした外国人娼婦たちがいたという。その頃の名残りが坂の名前となって残っているのだ。長野オリンピックの時には、多くのタイ人労働者が現場で働いていて、彼らの落とす金を目当てに、同胞の娼婦たちが長野県内や群馬県などで多く働いていたという。ちなみに、『飢餓海峡』などで知られる水上勉の遺作となったのが、長野県佐久のタイ人娼婦と男たちの交流を描いた『花畑』である。

 今から10年ほど前までは、外人通りのスナックは、飲み屋というよりは置屋のようだったと豊川さんは言う。摘発された「夢」にも行ったことがあったという。

「カウンターとソファーと座敷があってね。もともとは居酒屋だったのを改装したんだと思う。最初はゆっくり飲みたかったんだけど、飲むような雰囲気じゃないんだよ。店にはタイ人と日本人のホステスがいたんだけど、座ってすぐに、タイ人のホステスが『遊ばないの』と誘ってきた。店の上にやり部屋があって、1時間2万円という値段だった。飲み代は、飲み放題で3000円、ホステスのドリンクが1000円だった。店としては、飲んでもらうよりは女を買ってもらう方が儲かるから、こっちに買う気がないとわかると、露骨に嫌な顔をされたね。驚いたのは、会計を済まして、店を出ると、日本人のホステスが追いかけてきて、『1万5000円でいい。頼むから遊んで欲しい』と、売春をせがまれたんだよ」

 そんな経験は後にも先にも、伊香保の「夢」だけだったという。