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曙の時とは、相撲協会の「歓迎度」がまるで違った

 着物姿の白鵬は朝稽古後、ここで立ったまま、

「日本人として恥じないように頑張ります」

 などと硬い表情で決意表明し、慌ただしく始まった即席の記者会見を短時間で終えた。協会幹部のコメントも「周りが目指すようなお手本に」「土俵でも私生活でも相撲協会の重んじるものを受け止めて」などと少しくぎを刺すようなニュアンスが行間から漂っていた。

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©️文藝春秋

 1996年、横綱在位中に同じく日本国籍を取得した米国出身の曙には東関部屋の上がり座敷がセッティングされ、まさしく晴れの会見で日本名の「曙太郎」を自ら書いた色紙を掲げて満面の笑み。全く対照的で祝福ムードにあふれていた。どちらも所属部屋の仕切りとはいえ、相撲協会による“歓迎度”が雰囲気の明暗や濃淡を醸成したことは間違いない。曙は結果的に角界を離れてプロレスラーとなったが、横綱としては若貴兄弟の好敵手を務めつつ後進を引っ張り上げた。言動にも慎重さがあり、周囲からも好まれていた。

曙は若貴兄弟の好敵手を務めつつ後進を引っ張り上げた ©文藝春秋

ヒール・朝青龍と対照的な「善玉」だったが……

 白鵬は優勝回数を重ねるにつれて、土俵内外の騒動が続発した。いわゆる“やんちゃ”で同郷の横綱朝青龍が問題行動を起こしても「朝青龍だからなあ……」との諦観に憎めなさがない交ぜになった。一方で白鵬は「ヒール」の先輩横綱に対抗する形で22歳にして颯爽と頂点に立ち、美しい体格に物静かなたたずまいは紛れもなく「善玉」だった。

朝青龍 ©️文藝春秋

 ところが、勝負判定に絡む批判や不服をあらわにする言動をきっかけにイメージが変わり始めた。軽いファンサービスのつもりだったろうが、千秋楽の表彰式で観客に万歳三唱や三本締めを促す行為は国技独自の“抑制の美学”と反した。横綱日馬富士による傷害事件が発生した酒席に同席していたことも、かなりのマイナスだった。取り口では大振りの張り手、立ち合いで肘を相手の顔面にぶつける攻めも批判の対象となった。もちろん禁じ手ではない上に、本人からすれば必死に勝ちにいっての戦法だろう。対応できない相手もふがいない。ただ正統派なイメージだっただけに「あの白鵬がねえ……」という失望感がどんどん膨らんだ。角界関係者やファンの心理の奥底には、品格や風格を期待したのに裏切られたという思いが増大していった。一人勝ちと同時に残念すぎるギャップ。気が付けば、大横綱は独りぼっちになっていた。