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相撲をとるのが楽しくてしかたなかった青年はなぜ変わったか

 3月で36歳となる白鵬は今も、愛に飢えている。5人兄姉の末っ子で生まれ育ち、自らも認める甘えん坊だった。まだ18歳の幕下時代に初めて取材した時から、自分を知ってほしい、褒めてほしいという無邪気さを感じた。自らの生い立ち、父や母のこと、モンゴルの雄大な自然、体が小さくて入門先が見つからなかった少年時代からの躍進などを語り続け、私が驚いたり、感心したりすると、本当にうれしそうな表情を浮かべていた。大関から横綱へと番付を急速に駆け上がった時は前途洋々の将来性から「大鵬の再来」などと賛辞を浴び、相撲を取るのが楽しくて仕方ないといった印象だった。

大関昇進の頃 ©️文藝春秋

 ついには自身の努力で「負けて騒がれる力士」にまで成長したが、同時に「勝って当然」の精神的境地に至るのは難しかった。だからこそ第一人者となった自分にあえて厳しい言葉をかけつつ、そっと褒めてくれる偉大な先人たちのさりげない愛情が心の支えでもあった。それが13年に元横綱大鵬の納谷幸喜氏、15年に北の湖理事長(元横綱)、16年に九重親方(元横綱千代の富士)が相次いで死去。18年には父のジジド・ムンフバト氏も他界した。

九重親方(元横綱千代の富士) ©️文藝春秋

「憧れるよりも、そろそろ自分が憧れられる存在に」

 同じ目線で怒ってくれたり、ねぎらってくれたりするこうした理解者を失ったことで、白鵬は気持ちの持って行き場が分からなくなった。まだ日本国籍を取得していないのに、一代年寄の願望を漏らしたのは15年あたりだ。その雑念が最高位としてあるべき淡々とした振る舞いを失わせ、「一言多くて大きな勇み足」という負の連鎖へと陥ってしまった。

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 愛の鞭を振るってくれた大先輩たちを失っていくうち、新たに白鵬の“心の拠り所”となったのが、不滅の69連勝を誇る横綱双葉山だ。第2次世界大戦前の1930年代後半から終戦まで無敵であり続け、土俵内外での立ち居振る舞いは力士の理想像として神格化されている。もちろん白鵬は生で見たことも話したこともないはずだが、20代半ばから芽生えた憧憬の念は尊敬へと変わり、最近では心の師として仰ぐほどになった。

双葉山

「夢の中で相撲を取った」

 と言ったこともあれば、63まで伸ばした連勝中を振り返る時は、

「双葉関と自分にしか分からない世界がある」

 とまで言った。だが相撲の神様を引き合いに出しながら騒動を起こす矛盾が、協会側の不興を買ってしまう。同じ伊勢ケ浜一門の浅香山親方(元大関魁皇)は、

「それでも白鵬には横綱の自覚を感じる。だからもう憧れるよりも、そろそろ自分が憧れられる存在になってほしい」

 と指摘。確かに言い得て妙だ。陰りが出てきた今こそ理想や愛を追い求めず、冷静に足元を見つめる時期ではないだろうか。