登場人物を“阿鼻地獄”に落す女のセリフ
既婚者でない者の恋愛は別れの時、互いが傷つくことを前提に進行するが、不倫は相手が未婚である場合「あなただけズルイわ」って、ことになる。「オレだって辛いんだ」などと言ってみても「私の悲しみに比べれば」が出れば黙るしかない。松本清張はそんな衆合(しゅごう)地獄をさらに引き下げ、地下360万キロの最深部にあるという“阿鼻(あび)地獄”に落すべく女のセリフを付け加えてみせる。
「妊娠しちゃった」、である。
これを切り出された時、不倫者は“それだけ”しか考えられなくなる。今までちっとも幸せじゃないと思ってた家庭が突然、極楽のように思え、いかにこの最悪の状況を回避し幸せを取り戻せるか? “それしか”考えられなくなるのである。女はさらに続ける。
「あなたが何と言っても、私は産むから」
小心者で、今まで揉めごとは出来る限り避けて生きてきた。今回だって、初めに誘ってきたのはこの女の方だ。そもそもこの女に恋愛感情なんて持ってなかったんだ。すぐに別れられるもんだと思ってた。それがズルズルと。それが今、人生最大の危機を迎えている。“こいつさえいなくなれば……”もう一度、幸せがやり直せる。自由の身に成れるんだ。その時、不倫者の頭に過るのは“殺意”。それしか考えられなくなった男の末路だ。
人間の煩悩が渦巻く作劇
僕は松本清張の小説(または映像)を、推理や社会派として見てこなかった。その根底に流れる人間の煩悩。分っちゃいるけどやめられない肉欲や、他人と比較しないと今いる自分の位置が確かめられない人間の弱さや、“幸せ”という人間が生み出した幻想を追い求めてしまう虚しさなど。これら全てがまるで反仏教のように展開するストーリーにゾクゾク、時にはワクワクしてきた。
本書『不安な演奏』は何と、煩悩渦巻くラブホテルでの録音テープから幕を開ける。たぶんこの時代はラブホなどというライトな呼び方ではなく“旅荘”、または“連れ込み宿”であろうが、その方が後ろめたい秘めごとにはしっくりくる。フツーの旅館と違って仲居は宿泊客の顔は見ないのが礼儀。しかし、事件の発端は男同士の客。珍らしい盗み録りから意外な方向に話はどんどん進展していく。特に既婚者であれば、そんな後ろめたい現場は何度か訪れたこともあるだろう。録音機を仕掛けられ、今ならYouTubeで流されるかも知れない。それが原因となり、今ある地位や家庭が崩壊する可能性だってある。