不調になって訪れた心境の変化
現役時代、松中の存在感は圧倒的だった。2004年の三冠王獲得に加えて、日本プロ野球史上初の3年連続120打点(2003年 - 2005年)達成など輝かしい成績を誇る。松中は当時を「打撃を極めたという感覚があった」と振り返る。
「2004年から2006年ぐらいまでは、どんなピッチャー、どんなボールがきても打てると思っていましたね。自分のなかでは、本当にこれ以上ないというくらい打撃を極めたという感覚がありました。
ただ、06年の交流戦の後(交流戦でも首位打者を獲得)、雑誌の取材で『もう極めるところがない』と話をしたら、天罰がくだったみたいにそれから怪我ばかりになって。
現役時代、僕は肉離れとか足のケガが多かったんですが、今考えると、しっかり休んで治してから試合に戻ればよかったんです。でも、06年の1月にホークスと7年契約を結んでいたから、ファンのためにも試合に出るのが自分の責任だと思っていのたで、完治しない状態で試合に出ていました。
見切り発車でケガした足をかばいながらプレーすると、バランスが崩れてほかの部分に負荷がかかって、別の場所を痛めるということの繰り返し。しかも、ケガをしたままだから十分に走れなくなる。走れないと筋力もどんどん落ちてくるという悪循環でした。
結果を残さないと批判される立場なので、それを覆したいという想いもあり、試合に出続けることにこだわったのは僕らしいといえば僕らしいんですけど、ちゃんと時間をかけてケガを治療してから復帰すれば、もうちょっと違う野球人生だったかなぁと思います」
「天罰」ではないだろうが、確かに松中は06年を境にけがを繰り返すようになり、徐々に調子を落としていった。次第に代打で使われることが増え、二軍生活も長くなった。
その頃、心境の変化が訪れた。
「僕はけっこう繊細で(笑)、メディアから批判されたり、球場でヤジられたりすると気になるタイプなんです。7年契約して、大金をもらっているのに打てなくなるといろいろ言われるようになって、最初の頃は正直に言って反発する気持ちもありました。
11年ぐらいから代打での起用が増えてきましたが、その頃に気づいたのは、なかには打てない僕を応援し続けてくれるファンもいるということです。いつも必ず、声援を送ってくれる。だから、僕もだんだん意識が変わってきて、13年頃には本当に応援してくれる人、支えてくれる人のためにプレーしよう、この人たちのために頑張ろう、と思うようになっていました。だから、代打の一打席でも自分の力を発揮できるように、トレーニングだけは欠かさずにやっていました」
寝耳に水だった「戦力外」報道
15年のシーズン、2軍で開幕を迎えた松中がようやく1軍に登録されたのは、チームが優勝を決めた後の9月21日だった。その8日後には現役続行を前提に退団を発表。この年、どのような心境の変化があったのだろうか。
「15年のシーズンは、ジムワークがうまくいったおかげで怪我もなく、調子も良かったんです(ウエスタン・リーグでは77試合で打率.299、11本塁打)。なかなか1軍での出場機会は得られませんでしたが、まだまだチャンスはあるだろうと思っていました。
ある日、王会長と話をした時も『マツ、お前のやりたいようにやれ』と言ってくれたので、『元気はあるので頑張ります』と話をしていたんです。ところが、その数週間後に『松中戦力外』という報道があって、本当に驚きました。
もちろん、当時41歳で自分の引き際について考えることもありましたが、その時は誰とも戦力外や引退について話をしていなかったので、寝耳に水の出来事だったんです。
その後もチームから『戦力外だ』という話はなかったのですが、先ほども言ったように僕はメディアを気にしてしまう性格なので、戦力外という報道を見てから『ああ、自分はもうホークスに必要とされていないのかもしれない』と疑心暗鬼になりました。同時に、ホークスにはお世話になったし、できることならホークスで引退したいと思っていたけど、自分はまだ動けるし、もっと野球がやりたいと思ったんです。それなら僕を必要としてくれるチームでプレーしようと思って、家族には『俺はまだ動ける。でも、ホークスに居座るのも違うと思う』と話をしました」