馬場正平はその時点ですでに「窓際」扱いで、この年は1軍に呼ばれなかったが、翌1959年、春の甲子園の優勝投手だった王貞治が宮崎球場でキャンプインする際にも、最初の打撃投手を務めている。「ボールが重くて前に飛ばなかった」王は語っている。
この年限りで馬場は巨人を退団し、翌年力道山の門を叩きプロレスラーになっている。
奇しくもONがプロ入りする際に最初に立ちはだかったのは、“巨人”ジャイアント馬場だったのだ。
甲子園のアイドルが連れてきた「試合以上の観客」
1969年夏の甲子園で延長戦の末に敗れた三沢高校の太田幸司は、その甘いマスクで甲子園アイドルの先駆けとなった。この年ドラフト1位で近鉄に入団。
翌1970年2月1日、藤井寺球場でのキャンプイン、10時半始動の30分前に太田は球場に姿を現したが、早朝から球場に詰め掛けた女性ファンが「キャーっ」と歓声を浴びせかけた。ランニングする太田の背中めがけて「キャーっ」キャッチボールをすると「キャーっ」、太田はベースランニングではぎごちないスライディングを見せて先輩選手たちの失笑を買ったが、その頭上からものすごい歓声が降り注いだ。藤井寺球場の内野席は続々とお客が詰めかけ1000人をオーバーした。
「去年は試合をしても(藤井寺球場に)150人しか来んこともあったのに」三原脩監督は詠嘆した。
このキャンプ中に太田幸司は「グリコアーモンドチョコレート」のCMを撮影している。近鉄バファローズの選手が全国版のCMに出るのは初めてのことだった。
キャンプ地に向かう途中にトレードを告げられたエース
1979年1月31日の正午過ぎ、羽田空港のチェックインカウンター前には、翌日からの宮崎キャンプに臨む巨人軍ナインが集結していた。突然、球団職員がその中に割って入り、エースの小林繁と何事か話し始めた。不審げな表情の小林は、選手の群れから外れて車に乗り込んだ。
巨人は前年「空白の1日」を主張して法政大学卒の江川卓の入団を強行しようとしたが金子鋭コミッショナーによって否定された。ドラフトで江川は阪神に1位指名されたが、金子コミッショナーの裁定で巨人とのトレードが画策され1月30日に阪神がそれに応じた。阪神は江川のトレードの相手として小林繁を指名。そこで急遽、キャンプに出発する直前の小林が呼び戻されることとなったのだ。