2月1日、プロ野球12球団は一斉にキャンプインを迎える。新型コロナウイルスの感染拡大によって例年よりも1カ所でまとまらず「分散キャンプ」を強化する球団も出ており、12球団の1軍はすべて無観客でのスタートになるなど、異例のスタートとなっている。
「球春到来」とも形容されるキャンプシーズン。これまでにも様々な「伝説」が生まれてきた。スポーツライターの広尾晃氏がその歴史を紐解く――。
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普段は観客席から眺めることしかできないプロ野球選手だが、春季キャンプでは手の届く近さで見ることができる。運がよければ言葉を交わすこともできる。プロ野球キャンプの魅力はプロ野球選手の「人柄」に触れることに尽きるのだ。キャンプにまつわる「人」のエピソードをいくつか紹介しよう。
長嶋茂雄、王貞治にプロの洗礼を浴びせた“巨人”
1958年2月17日、国鉄明石駅は駅舎の外にまで人があふれかえっていた。この日、立教大学の卒業試験を終えたゴールデンルーキー長嶋茂雄が巨人軍のキャンプに合流するのだ。長嶋は前年、東京六大学の本塁打記録を「8」に塗り替えた。当時の六大学はプロ野球と肩を並べる人気で、始まったばかりの民放テレビでも試合中継があった。
長嶋が姿を現すと、ファンは色めき立った。長嶋が歩き出すとファンはお城下の県営明石球場までぞろぞろと付いて歩いた。ファンの中には、育英高校の野球部でのちに長嶋のチームメイトになる土井正三も交じっていた。授業をさぼって長嶋を観に行った土井たち野球部員は、あとで教師から大目玉を食らった。「あの時の長嶋さんは、まだ知り合いがいなくてグラウンドでぽつんと一人だったな」土井は語っている。
柔軟体操をする段になって、長嶋は見たこともないような巨大な選手と組むことになった。馬場正平、のちのジャイアント馬場だ。馬場は長嶋より2学年下だったが、新潟の三条実業高校を中退して3年前に巨人の選手になっていた。柔軟が終わるとキャッチボール。投手だった馬場はボールをわしづかみにして投げていた。ナックルのように無回転で重いボールが長嶋のグラブにずしりと収まった。「プロはすごい」長嶋は思った。