公演中の舞台に上がって芝居をぶち壊す
30年には、山口組が用心棒を務めている芝居小屋「湊座」の責任者ともめたことが原因で、公演中の舞台に上がって芝居をぶち壊すという暴挙に出る。本来なら山口組から追い出されるところだが、山口登二代目は田岡三代目の威勢のよさを気に入り、本格的なヤクザ修業を積ませた。
山口組という強力なバックボーンを得た田岡三代目はさらに戦闘性を増していく。32年には、山口登二代目が後援会の会長を務めていた大関・玉錦ともめた力士・宝川の寝込みを襲って、刀で頭を斬りつけ、防ごうとした宝川の右手指を斬り落とす事件を起こした。
続いて34年には、神戸港の海員組合での労働争議に関わっていた山口登二代目の舎弟が、組合員らに殺害される事件が発生する。そこで田岡三代目は労働争議本部を襲って、組合長を斬りつけたのだ。
暴力でのし上がったカリスマ
こうした田岡三代目の暴力性は山口二代目には好意的に映ったようで、36年に正式に親子盃を下ろされている。田岡三代目はそのとき24歳、最年少直参の誕生だった。
そして37年には、素行の悪さから山口組を破門された大長政吉とのトラブルを発端に、その実弟の大長八郎と決闘することとなった。「クマ」と呼ばれた田岡三代目と、「ハチ」と呼ばれた八郎は、かつて気の合う仲間だったという。だが、田岡三代目は迷うことなくヤクザの筋を選んで八郎を一刀のもとに斬り捨てたのだ。この「大長事件」により田岡三代目の勇名は急速に広まったが、代償として懲役8年の刑を受ける。
43年に刑期が2年短縮され出所すると、山口登二代目はすでに前年に病で他界していた。
落ち込む田岡三代目だったが、2年後に日本は敗戦国として終戦を迎え、国内は混乱期に突入する。神戸の街でも不良米兵や不良外国人が悪事を働き治安が悪化。それを見かねた田岡三代目は懐にピストルを忍ばせ、彼らと対峙したのである。次第に、付き従う者たちが現れたことで、田岡三代目の名はいっそう高まっていったという。