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歌舞伎町の発展と高度経済成長期が、アジア系の外国人を呼び込む

 関東大震災では、目立った被害はなかったらしい。戸山ヶ原には陸軍の射撃場がつくられ、実弾を撃って訓練する音が聞こえていたという。昭和に入り軍の力が増大するにつれて、近隣は軍人や軍属も増えてくる。彼らが次なる「よそもの」だった。

 また戦時中は、満州から学生たちを留学させることも行われており、大久保には彼らの寮のような施設もあった。モンゴル人や中国人が出入りし、戸山小学校にも通っていたという。同級生だった方のお話が『OKUBO』に掲載されているが、「身体が大きくて、くそ真面目で、相撲が強くてまるで相手にされなかった」そうだ。

 こうした軍関連の施設が多かったからか、大都市新宿が近かったからか。戦争末期、大久保は徹底的に空爆された。市街の9割ほどが焼失したと言われる。戦後、焼け野原になってしまった街に戻ってきた人は2、3割だったそうだ。亡くなった人、疎開したまま帰らなかった人、生き方を変えた人もいただろう。もとの住民が消え、空っぽになってしまった街に、また「よそもの」が流入してくる。新宿の復興需要を見込んで地方からやってきた人々、復員してきた人々、焼け跡にそのまま住みついた人々……。

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戦後の混乱を生き抜く中で頭角を現した外国人たち

 その中には、朝鮮、韓国人や台湾人も混じっていたという。古い住民からは、朝鮮人や韓国人は大久保駅のそばにバラックを建てて住んでいたとか、廃品回収の商売をしていたようだとか、新宿駅周辺の闇市から卸してきた食品を大久保に運んできて売っていたなんて話も聞く。

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 1950年(昭和25年)には、菓子メーカーのロッテが工場を建設する。新大久保駅のそば、現在は住宅展示場となっている場所だ。ロッテは韓国企業だから、これをきっかけに新大久保には韓国人が集まってきた……という話もある。工場労働者として在日韓国・朝鮮人を雇ったのだというが、「文化センター・アリラン」の鄭さんいわく「それは俗説で、あまり関係はない」のだとか。

「在日韓国・朝鮮人ばかり雇用するとも思えないし、彼らが工場のそばに集住してコリアンタウンをつくったとも考えにくい」と話す。

 ただ、この工場からはいつも甘いガムの香りが漂ってきて、それをよく覚えていると懐かしそうに語る住民は多い。子供の頃の記憶に刻まれている香りなのだ。

 いずれにせよ戦後の混乱を生き抜く中で、彼ら外国人が力を持つようになってきたらしい。とくに大久保の隣、新宿で、外国人たちが頭角を現すようになっていった。