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 設計したのは、箱館奉行が安政3年(1856)に開設した教育機関「箱館諸術調所」の教授であり蘭学者の武田斐三郎。箱館港に入港していたフランス軍艦の士官からの紹介を参考に設計したとみられます。

 1850年代になると火力兵器が発達し、日本で主流だった火縄銃とは比較にならないほど射程が伸びました。五稜郭は大砲の射程を考慮して広い堀幅を設け、壁には石垣ではなく土塁を採用。大砲の照準になりえる高層建造物は建てず、高さ5~7メートルの土塁で覆い隠すような構造になっています。

虎口の前に突き出す「半月堡」。
半月堡の内側。土塁と石垣で囲まれる。
堀幅は最大で約30メートル。

財政難により設計変更

 半月堡はひとつしかありませんが、初期の設計図とみられる「五稜郭初度設計図」(市立函館博物館蔵)には5つ描かれており、計画の途中で変更されたとみられます。幕府の財政難や工期短縮の必要により、工事の規模は大幅に縮小されたよう。

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 最終設計図と思われる絵図では出入口に弁天岬台場と同じようなトンネルが計画されていたようですが、これも叶いませんでした。時を同じくして幕府が築いた品川台場(東京都品川区・港区ほか)も建設が頓挫しており、幕府の逼迫した財政事情がうかがえます。

虎口を塞ぐように設けられた「見隠塁」。
敵の動きを阻止するはね出し工法の石垣。
最上段の石を突き出すようにして築いている。

 設計には横矢掛りが意識され、3か所の虎口には「見隠塁(みかくしるい)」という蔀が設けられていたりと日本式の城との共通点が見出せます。接近戦も想定した、日本の城らしい発想も散りばめられているといえそうです。「はね出し石垣」は、敵がよじ登れないように石垣の最上段を庇のようにせり出させたもの。現存例は五稜郭や品川台場、人吉城(熊本県人吉市)などにしかありません。

 財政難にもかかわらず、驚くべきところに莫大な費用がかけられているのも特徴です。それが、箱館奉行所庁舎です。