芸術家の使命とは何か? 美しく、そして誰にも真似できぬオリジナルなものを、つくり出すことだろう。

 そんな使命を果たすべく、生涯にわたり革新を繰り返した表現者の回顧展が、東京都美術館で始まった。「没後70年 吉田博展」。

 

家族を養うため「絵の鬼」になる

 水彩、油彩、それに版画。手法はさまざまな変遷を経たものの、吉田博といえばとにかく風景画の名手として知られる。

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 開国して間もない1876年に福岡・久留米で生を享けた吉田は、小さい頃から絵を描くのが大の得意だった。

 画塾に入るため17歳で上京するも、同年に養父を亡くし、突如として7人家族を養う家長の立場に立たされた。修業などと悠長なことは言っていられない。

 吉田は死に物狂いで絵を描き、売ることを始めた。いつしか通り名は、「絵の鬼」「早描きの天才」となった。

《渓流》1910年 福岡市美術館  油彩画を代表する一点。

 やがて吉田は海外へ渡航を決意する。その際の判断に、早くも彼のオリジナリティが現れる。

 明治時代の日本では和魂洋才の掛け声のもと、あらゆるジャンルの有為な若者が海を渡った。留学先はたいてい英国、フランス、ドイツ……。欧州列強の国々だ。

 ところが、吉田が学びに出たのは米国。芸術家の目指す地として一般的ではなかったけれど、この選択が吉と出た。

 見知らぬ遠き地から来た画家の絵は、珍しさも手伝ってか、彼の地で好評のうちに迎えられる。作品の買い手もたくさん現れた。そう、吉田のスタンスは米国で学ぶというより、市場開拓の意味合いも強かったのだ。

《上野公園》1938年

 吉田は、自作を売りながら旅を続けた。ヨーロッパへも回り帰国すると、彼の名はすでに広まっていた。国内でも各地へ赴いて風景画を描き、画境を確固たるものとしていく。

 山を愛した吉田は、山岳風景も多く描いた。彼はいつでも、徹底した「現場主義」である。どんなに峻嶮な地でもみずからの足で踏破し、綿密なスケッチを持ち帰って制作をした。

吉田は各地へ赴き綿密なスケッチをした。

 日本の絵画には「気韻」などと称する空気感を重視する傾向があり、ガチガチの写実はなかなか主流となり得ない。そんな風潮など我関せずとばかり、吉田は独自の「リアルさ」を存分に追求した。