メジャー行きは挑戦というより“留学”
桑田は1986年に巨人へ入団し、斎藤雅樹(55)、槙原寛己(57)とともに“3本柱”としてチームを支えた。通算173勝の勝ち星を積み上げ、2006年に巨人を退団。2007年には海を渡りピッツバーグ・パイレーツで、夢だったメジャーのマウンドを踏んだ。
「あれは『メジャー挑戦』と言われていますが、意味合いとしては『留学』でしょう。自分の力が全盛期よりも落ちているのは本人もわかったうえで、メジャーの価値観を観察し、マイナーからメジャーへの上がり方を実践し、メジャーのレベルを自分で体験して、全て記録に残していました。あの『留学』は“ベースボール”の研究と人脈作りが大きな目的だったのではないかと言われています」(スポーツ紙記者)
東大の前身の旧制一高にも興味
2008年の春に現役を引退した桑田は日本球界と距離を置き、2009年に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学し、首席で卒業。2013年からは東京大学の野球部で特別コーチを務めていた。コーチ就任の経緯について、東大野球部元監督の浜田一志氏が当時を振り返る。
「横浜や西武で活躍した今久留主成幸さんが東大野球部のコーチをしてくれていたのですが、実は桑田さんとPL学園の同級生で、『桑田が東大の野球を勉強してみたいと話している』と紹介を受けてお会いしました。桑田さんは『僕は経験しなかった大学野球を勉強してみたい。ゆくゆくは東大の研究室で野球理論も勉強したいんです』と話されていました。
桑田さんは野球の歴史を研究する上で、東大の前身の旧制一高から日本の野球の歴史が始まったことや、東京六大学野球が人気を誇った昭和初期のことも詳しく勉強していて、そのなかで東大の野球に興味を持たれたんじゃないかなと思います」
東大野球部の全体練習は平日の朝8時から12時までで、その後は自主練習。桑田は週1回のペースで参加していたという。
「練習の合間に、物理学のような質問をされたこともありました。桑田さんは『優秀なバッターほどアッパースイングである』ことに疑問を感じていたようで、私が『サイクロイド曲線』という、バットスピードを上げるためには弧を描くように振ったほうがいいという話をお伝えしたら、桑田さんは頷きながら聞いていました。いつもメモ帳をポケットに入れて、気がついたことを細かくメモに残していて、『野球を科学的にしっかり勉強して、過度な練習は体によくないことを証明したい』と語っていたのが印象的です」