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年俸は1200万円。南海時代の8分の1になった

「日本の中心は東京なんだから、きっと道も開けるわよ」

 と沙知代は言うものの、野村自身は不安でしかなかった。野球がなくなった自分に何ができるのか。家族を養っていくための収入はどうやって得たらいいのか。まさにお先真っ暗の状態だった。そんな野村の心の不安を察してか、沙知代は力強くこう言い切った。

「今年が42歳の厄年なんだから、これも厄払いと思えばいいじゃないの。なんとかなるわよ」

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 途方に暮れていた野村は、この一言に救われた。「男として、一家の主として、どんなことをしてでも家族を養っていかなくてはいかん」と勇気が湧いた。

「オレ自身、情けない気持ちしかなかったけど、彼女の強さをこのときほど頼もしいと感じたことはなかったよ」

 と後年、野村は私にこの時の気持ちを語った。

 それからひと月もしないうちに、ロッテからお声がかかった。年俸は1200万円。南海時代、選手兼任監督だったときは1億円を超えていたというから、およそ8分の1の金額だ。

「今までのような生活はできなくなるけど、我慢してくれ」

©文藝春秋

 そう告げると、沙知代は、

「あなたが好きな野球が思い切りできるんだから、いいじゃない。頑張りなさいよ。お金のことなんて心配しなくていいからさ」

 と言って野村を励ました。さらに幼い息子の克則を連れて、朝からお昼ごろまで乳母車に乗せてあちこちに行っていた。子どもが泣けば寝室に聞こえてくる。野村の安眠を妨げるようなことはしないという沙知代なりの配慮だった。

オレをこんなに働かせて、まさか殺す気じゃないよな

 ロッテで1年、西武で2年現役を続けた後、野村は45歳で現役引退。直後、野球評論家としての生活がスタートした。同時に全国から講演の依頼が殺到する。野村自身は「実は講演会が一番苦手だった」という。話をすること自体照れくさいうえに恥ずかしい。それに自分の話す内容を、多くの聴衆が興味を持って聞いてくれるかどうか、自信が持てなかった。

 そのことを沙知代に話すも、どこ吹く風とばかりにまったく意に介さない。マネージャー的役割を担っていた彼女は、野球の解説で球場にいる以外の空いた時間は、すべて講演の仕事を入れていった。1年365日の間、ほとんど真っ黒になるほどスケジュールが埋まっていく。

©文藝春秋

「お前、オレをこんなに働かせて、まさか殺す気じゃないよな」

 沙知代にこう文句を言うと、彼女からこんな答えが返ってきた。

「何ぜいたく言っているの。講演をやりたくても声のかからない人のことを考えなさい。声がかかるということは、それだけあなたの話を聞いてみたいと期待されている証拠じゃないの」