昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/02/13

評論家になって1年で田園調布に300坪以上の豪邸を構えた

 その話を聞いて、「なるほど一理あるな」と野村は納得し、講演活動で東奔西走した。あるときは大阪で講演を終えた1時間後に、三重県の鈴鹿で講演があったため、ヘリコプターで移動することもあった。こうして1年間で300以上の講演活動をこなしていくなかで、それまで苦手だった話すことに対して自信が持てるようになっていった。

 さらに講演料を稼ぐなかで金銭的にも余裕ができ、評論家になってから1年後、それまで住んでいた目黒から田園調布で300坪以上の豪邸を構えることができた。また、沙知代はよきアドバイザーの役割を果たした。野村はテレビ局のプロデューサーやディレクターに、「私の解説で気がついたことがあったら、どんどん言ってください」とお願いしていたものの、返ってくる答えは、「いいです」「素晴らしいです」という賛辞ばかり。だが、沙知代は違った。

「あなたの解説を聞いていたら、『やっぱり』と『ですよね』ばかり言っていたわよ」

©文藝春秋

 後でビデオを見返してみると、その通りだった。「やっぱり」「ですよね」は意識して使わないようにしよう。こうして視聴者に聞きやすい解説をするように心がけた。

 野村はよく「人生には3人の友が必要だ」と話していた。原理原則を教えてくれる友。直言してくれる友。人生の師となる友。沙知代は野村にとって、「直言してくれる友」であるとともに、戦友のような存在でもあったのだ。

SMAPの中居正広がきっかけだった「サッチー」という呼び名

 その後もさらに多忙な日が続くなかで、89年にヤクルトから監督要請の声がかかった。再びユニフォームを着てグラウンドに戻れる――。野村はそのことに至上の喜びを感じていたが、沙知代が野村にかけた言葉は「頑張りなさいよ」の一言だけだった。

 野村がヤクルトの監督として実績を積み重ねていくと同時に、沙知代も「ヤクルトの野村監督夫人」という肩書で、徐々にメディアに露出していく回数が増えていった。

©文藝春秋

 今ではおなじみになった「サッチー」というニックネームは、野村が命名したわけではない。彼女が96年10月から半年間、レギュラーを務めた『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)で、同じ曜日でレギュラー出演していた中居正広がそう呼んだことがきっかけだった。夫婦で繁華街を歩くと、道行く人からこんな声をかけられた。

「あっ、サッチーだ」「本当だ、サッチーだ」「隣にダンナもいるぞ」

 気づけば「野村監督」よりも「野村監督夫人」のほうが有名になっていた。マイナス思考の野村に対して、沙知代はどこまでもプラス思考だ。キャラの立っている彼女を、テレビ局の人間が放っておくわけがない。ほどなくして沙知代はお茶の間の人気者となった。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

この記事の写真(17枚)

+全表示

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー