2020年2月11日に野村克也氏が84歳で亡くなってからちょうど1年が経った。野村氏は生前よく妻・沙知代さんとの関係について「世間からはオレたち夫婦はいろいろなことを言われているのはわかっている。でもそんな声は気にしていない。大切なのは、オレたち夫婦がお互いのことをどう思っているかなんだ。オレ自身、彼女がいたからこそ人間的に成長することができた。それだけは間違いない」と語った。野村氏の1周忌に寄せて、世間で誤解されがちだった夫婦の「真実」を描く。(#2を読む)
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「おまえ、ちょっと口がきついぞ」
1989年、野村がヤクルトの監督に就任し、監督として実績を積み重ねていくと同時に、沙知代も「ヤクルトの野村監督夫人」という肩書で、徐々にメディアに露出していく回数が増えていった。
一見、順風満帆に見える中、野村には1つ懸念していたことがあった。沙知代は誰に対しても野村と接するときと一緒だったことだ。それだけに敵を作りやすいタイプなのではないかと心配していた。たとえ大企業の社長であっても、思ったことは何でもボンボン口にしたかと思えば、耳の痛くなるような欠点もズバズバ突いてくる。野村が「おまえ、ちょっと口がきついぞ」と注意しても、馬耳東風とばかりにまったく態度をあらためる気配がない。
野村は沙知代との夫婦関係を、野球にたとえて「バッテリーである」と言っていた。キャッチャーは気配りと思いやり、責任感がないと務まらないポジションである。対してピッチャーはわがままで自己顕示欲が強く、お山の大将であるべきだ――。
つまり、野村家では野村がキャッチャーであり、沙知代がピッチャー。ただし、彼女の言葉は、ビーンボールまがいの毒舌や相手を怒らせてしまうような暴投も多い。それを野村がユーモアというミットで構えてしっかり受け止めた。
夫婦喧嘩の際、沙知代が、
「私は『風と共に去りぬ』の主人公であるスカーレット・オハラのような、玄関に大理石の柱が4本立っているお屋敷に住んで、執事やメイドにかしずかれる生活を夢見ていたのよ。まさかあなたのような人と一緒になるなんて、思ってもみなかった」
と言うと、野村は、
「そんな豪邸、日本じゃ無理だろう。とりあえずホームセンターで棒を4本買ってきて、玄関に立てかけておけばいい」
と返した。一事が万事、こんな調子だから沙知代の気勢も削がれてしまい、何が原因で揉めていたかもしばらくするとケロッと忘れてしまった。しかし、これが家庭内だけで終わるのならばそれでいいが、もし外でも同じことが起きたら――。野村は一抹の不安を拭い去れずにいた。
はたして野村の不安は的中し、沙知代の歯に衣着せぬ物言いをきっかけに、世間を騒がせる大事件へと発展していく。