「私はやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」
加えて、カラオケ屋に見えない工夫をしたカラオケ屋でなにやらイキり飛ばしている“IT業界男”、銀座コリドー街にあるドリンクとフード全品333円均一のスタンディングバー「333」にて名刺を渡しつつドヤ顔で「おごりますよ!」と迫るサラリーマンなど、絹が目にする連中はなにかとこちらをザワつかせる。
どんどん社会が殺伐とした空気になって、貧しくなる一方であった5年間を懸命に生き、ずっと一緒にいようともがく麦と絹が切ない。それでも、明大前駅で終電を逃したふたりが、カフェ、居酒屋、カラオケ屋と場所を移しながら運命を感じていく出逢いのシークエンスは、いまやコロナ禍で叶わぬものだけに眩しく見えるのだが……。
そして、辛さに直面したふたりの選択に深く考えさせられる。イベント会社への転職を決めた絹を「(そんな仕事は)遊びじゃん」となじり、「仕事は遊びじゃないよ」「取引先のおじさんに死ねって怒鳴られて、ツバ吐かれて。俺、頭下げるために生まれてきたのかなって思う時もあるけど、でも全然大変じゃないよ、仕事だから」と言い切る麦。絹は「私はやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」と返す。どう考えたって絹のほうが正しいし、そうすべきだと誰もが思うはずだが、それを実現できる人はやっぱり少ないのだ。働くことは生きることに直結するだけに、このやりとりが刺さって刺さって仕方なくなる。
劇中の固有名詞が分からなくても楽しめる
第3の理由は、超近年のカルチャーに関心のある者もない者も楽しめる作りになっているから。
思わぬ形で一緒に押井守を見掛けたことに興奮し、一気に打ち解けてしまう麦と絹。このことからもわかるように、彼らは間違いなく文化系カップルだ。それゆえに、それぞれがハマってきた&一緒にハマる、小説、漫画、音楽、映画、ラジオ、舞台、足を運んできた場所の固有名詞が、ベルトコンベア状態で飛び出してくる。滝口悠生『茄子の輝き』、今村夏子『ピクニック』、文学ムック「たべるのがおそい」、野田サトル『ゴールデンカムイ』、きのこ帝国「クロノスタシス」、『菊地成孔の粋な夜電波』、早稲田松竹、原美術館……。それらに相反するものの象徴のように、前田裕二のビジネス書『人生の勝算』が登場する。