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元祖“育成の星” 山田大樹が14年間で一度だけ起こした奇跡

文春野球コラム ウィンターリーグ2021

2021/02/15
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 元祖“育成の星”がユニフォームを脱いだ。

 昨季限りでヤクルトスワローズを自由契約となった山田大樹さん。14年間の現役生活にピリオドを打つ決断をしたのは、今年1月に入ってからだった。

「終わっちゃいましたよ。まあ、遅かれ早かれ(引退は)いつか来ること。それが今なんだと割り切りました」

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 2006年育成ドラフト1位でソフトバンクホークスに入団。最初に貰った背番号は「121」だった。

 育成選手も、今のプロ野球では珍しくない。たくさんのスター選手もここから生まれた。しかし、山田さんがプロ入りしたのは育成制度導入2年目。世間的な認知度はまだ低かった。

©文藝春秋

「自分だけが背番号3ケタ。辛かったなぁ」

 4人兄妹の一番上。「早く自立しなきゃ」との思いから育成だとしても入団することに迷いはなかった。それに、曲がりなりにもホークスの一員になれるのだと考えていた。

「だけど、倉野(信次)コーチから言われたのは『オマエはプロ野球選手じゃないんだぞ』。正直、最初はそういう自覚がなくて『う、そうだな』と思わされました。それは数年後の千賀(滉大)とかも言われていました」

 ただ、それ以上に堪えたのがファンの視線だった。キャンプでも1日数万人が訪れるホークス。「誰、あれ?」という言葉が耳に何度も飛び込んできた。

「キャンプ中のホテルやシーズン中も寮暮らしで食事が出ますから、極端な話、いくら給料が安くても生活はできました。ただ、1年目は自分だけが背番号3ケタ。それが恥ずかしくて。辛かったなぁ」

 自分が頑張るしかない。そう言い聞かせながら地道に努力を続ける日々を送る中、プロ2年目に悲劇に襲われた。左肘を疲労骨折しシーズンを棒に振ってしまったのだ。

 育成選手はドラフト入団から3年経つと自動的に自由契約となる。翌3年目に復帰したが、夏場に差し掛かっても支配下登録の気配はなかった。「開き直りました」。クビを覚悟した。しかし、支配下登録期限を過ぎた8月の二軍戦、奇跡が舞い降りたのだった。

 それまで140キロ前後だったストレートが突如150キロ台を連発した。それが王貞治球団会長の目に留まり、王会長自らが球団に契約延長するように働きかけた。

 だが、150キロを投げる左腕を他球団が知らないはずはなかった。オフに入り自由契約公示となった瞬間の午前0時、あるチームの編成担当者から電話がかかってきた。具体的な金額提示、そして支配下登録でのオファーだった。嬉しかった。だけど心が揺れた。悩みに悩んで一晩眠れなかったという。結局、翌日に断りの連絡を入れてホークスに残ることを決めた。

「ホークスに3年間もお世話になったのに、僕は何の恩返しもできていない。特に2年目はまったく野球ができなかった。義理と人情は通さないと、でしょ」

パ・リーグ育成出身初の日本シリーズ勝利投手に

 山田さんがホークスに支配下登録されたのはそれから数ヵ月後、プロ4年目の開幕直前。推したのはやはり王会長だった。

「長身の左投手で角度のある力強い球を投げられるのは大きな武器。考え方もしっかりと整理できているし、自分自身を落ち着いて見ることができている」

 背番号34が与えられた。伝説の長身左腕、金田正一さんのようになってほしいとの願いが込められていた。

 2010年6月に先発で一軍デビュー。ローテ入りして先発3戦目だった6月24日にファイターズ戦で9回途中まで6安打1失点に抑える好投を見せてプロ初勝利を飾った。パ・リーグの育成出身選手として初めての勝利投手という球史に残る1勝だった。

 その後も山田さんは球史に名を刻んだ。2011年は開幕からローテに定着して5月20日のタイガース戦で9回零封した。パ・リーグ育成出身初の完封勝利だった。同年は7勝して、日本シリーズ第5戦に先発する大役も回ってきた。ここでも6回無失点の快投。パ・リーグ育成出身初の日本シリーズ勝利投手となった。

「いろんな試合を思い出すけど、やっぱり日本シリーズで勝ったのが一番の思い出ですかね」

©文藝春秋

 2012年は8勝をマーク。結果的にこれがキャリアハイだった。その後は故障や後輩の台頭で徐々に出番をなくした。ウエスタン・リーグでは2014年に8勝1敗(防御率2.86)、2016年は9勝1敗(防御率1.49)、2017年は10勝5敗(防御率2.35)の成績を残しても、なかなか一軍には呼ばれなかった。ホークスの層の厚さの象徴でもあったが、2年連続でファーム最多勝となった2017年オフについに構想外となり、無償トレードの形でスワローズに移籍をすることになった。

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