ソ連は、1957年10月4日午後10時28分(モスクワ時間)、世界初の人工衛星となるスプートニク1号を、当時自国領内だったカザフスタンのロケット発射場(現在のバイコヌール宇宙基地)から打ち上げた。いまから60年前のきょうのできごとである。
スプートニク1号は、金属球の本体に4本の棒状アンテナが取り付けられ、電波を発信するようになっていた。地上の受信機が初めてその信号音をとらえたとき、開発の主導者だったセルゲイ・コロリョフは、「私が生涯をかけて待ち望んでいたのは、ただこの日のことだ!」と言ったと伝えられる(的川泰宣『月をめざした二人の科学者 アポロとスプートニクの軌跡』中公新書)。当時のソ連共産党の第一書記フルシチョフに打ち上げの事実が知らされたのは、それから約1時間半後、再びスプートニク1号からソ連の地上局が電波を受信し、地球を一周したことが確証されてからだった。
じつは当初、スプートニク1号の打ち上げは10月6日に予定されていた。しかしアメリカがこの日に人工衛星を打ち上げるようだとの情報があり、コロリョフの提案で2日早められたという(冨田信之『ロシア宇宙開発史 気球からヴォストークまで』東京大学出版会)。事実、アメリカも、この年7月に始まった国際地球観測年に合わせ、人工衛星の開発に着手していた。しかし結果としてソ連に先んじられ、アメリカ国民は大きな衝撃を受ける。そのうえ、ソ連はこの直前の8月、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実験に成功していた。ソ連がスプートニク1号を正確に軌道に乗せたことは、同じロケット技術を用いるICBMの精度を実証したことを意味し、アメリカをはじめ西側諸国にとっては安全保障の面でも脅威となる。
もっとも、当のソ連では、人工衛星の意義はなかなか理解されなかった。打ち上げ直後の国内メディアにおける扱いもごく小さなものであった。それが西側諸国の過熱報道が伝わるや、10月6日には、ソ連共産党の機関紙『プラウダ』は一転して、一面トップに「世界初の地球軌道上の人工衛星、ソ連邦で誕生」という大見出しを掲げ、その成功を大々的に伝えた(『月をめざした二人の科学者』)。フルシチョフも、欧米の報道でようやくその意義を知ると、コロリョフら技術者をモスクワに呼び出す。そして翌11月に迫ったロシア革命40周年を祝賀するため、新たな人工衛星の打ち上げを命じた。これを受けてコロリョフたちは、わずか1ヵ月足らずのあいだに準備を進め、革命記念祝典の当日の11月3日、スプートニク2号を打ち上げる。これには「ライカ」と名づけられた雑種の犬が乗せられていた。