このとき、無事に出番を終えた近田に、かまやつひろしが声をかけてきて、ツアーへの参加を打診される。かまやつの所属したバンド、ザ・スパイダースのファンだった彼は大喜びで、さっそく内田に報告した。だが、内田には「てめえ、ムッシュ(かまやつ)と俺とどっち取るんだよ、馬鹿野郎!」と烈火のごとく怒られ、結局、近田はこの話を断らざるをえなかった。以来、彼は《内田裕也の一家の者になったんだなと観念し》、付き従うことになる(※2)。
紳士だった内田裕也への近田のリスペクト
ただ、近田に言わせると、内田は酒癖が悪いとか、癇癪持ちだとかいった部分はあるけれど、基本的には紳士であったという(※2)。
近田が1997年より24年にわたって『週刊文春』で連載した人気コラム「考えるヒット」にも、内田へのリスペクトがときどき垣間見える。たとえば、細野晴臣と大滝詠一がそれぞれ手がけた作品をとりあげた回(1997年12月4日号掲載分)では、こんなことを書いていた。
《私は十代の頃、ユーヤさん(内田裕也)の音楽観に本能的に自分と似たものを見つけ、以来ユーヤさんを心の師としてあおぎ続けている者であるから、当然七〇年代初頭において、はっぴいえんどを、「ロックの敵」として位置づけ暮らしていた》(※3)
はっぴいえんどとの「日本語ロック論争」
はっぴいえんどとは、言うまでもなく、細野と大滝が1970年代初めに松本隆・鈴木茂とともに組んでいたバンドである。内田裕也とは、日本語はロックに乗るか否かなどが争点となった(厳密にはそれほど単純なものではなかったようだが)いわゆる「日本語ロック論争」で対立した“因縁”の相手であった。近田に言わせると、はっぴいえんどはロックではなくフォークで、どうも受け入れられなかったという。
もっとも、近田自身はその後、自身のアルバム『天然の美』(1979年)の制作にあたり、細野晴臣が結成したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)をアレンジャーに迎えている。きっかけは細野と雑誌で対談したことだった。初めて顔を合わせ、互いに想像したのとは違って話が合ったらしい。
話を内田裕也に戻せば、内田が「日本語ロック論争」を繰り広げたのは、1年ほど日本を出て、パリやロンドンなどを回って帰国して間もない頃だった。訪欧中にロックやファッションの新しい動きを目の当たりにした彼は、これからはインターナショナルなバンドしかやらないと心に誓い、前出の麻生レミをボーカルに据えて、フラワーズを結成する。