ミュージシャンの近田春夫が、きょう2月25日、70歳の誕生日を迎えた。近田はこれに先立ち、1月には自伝『調子悪くてあたりまえ』(リトルモア)を刊行しているが、そこには本業の音楽のほか、タレント業や文筆業など多岐におよぶ活動が存分に語られている。登場する人物たちも豪華だ。
とりわけ近田にとって大きな存在だったのが、一昨年に亡くなったロックミュージシャンの内田裕也である。
自伝によれば、内田と初めて会ったのは慶應高校の3年生だった1969年9月、学校の先輩でギタリストの成毛(なるも)滋を発起人として日比谷野外音楽堂で開催された「ニューロック・ジャム・コンサート」の楽屋でのこと。当時よりバンド活動をしていた近田を、成毛は「この男はキーボードが弾けるんですよ」と内田に紹介してくれたという。
“イカれたおとな”だった内田裕也に魅せられた近田春夫
近田は出会うはるか以前、少年時代から内田に魅せられていた。後年プロデュースした内田のインタビュー本のまえがきでは、こんなふうに書いている。
《昭和三十年代なかば、小学生だった頃にTVで初めて観た内田裕也の印象をいまだ忘れられない。(誤解を承知で言えば)なんとも“イカれたおとな”だったのだ。それで、見た瞬間に夢中になってしまった。もはや死語となってしまったコトバに“チンピラ”というのがある。内田裕也は意識的にそしてシリアスに! そういう匂いをまき散らしているかにも見えた。その、恐いようでもアリ、どこか可笑しくもアリ、というアティチュードが、たまらなくカッコ良く映ったのだ》(※1)
高校卒業まぎわ、平凡出版(現マガジンハウス)が女性誌『アンアン』の創刊にあたって編集スタッフを公募していた際にも、課題の作文で「内田裕也は絶対にスターになる」という文章を延々と書いて応募したという。これが功を奏したのか、近田は1970年に慶大に進学すると、しばらく同誌の編集室でアルバイトをすることになる。
近田が「内田一家」の一員となったのはその翌年、1971年のこと。内田から電話があり、日比谷野音でのあるコンサートに、歌手の麻生レミが出演するので、バックでピアノを弾いてほしいと依頼を受ける。麻生は、かつて内田がプロデュースを手がけたバンド、フラワーズのボーカルで、当時はソロに転じていた。本来、彼女のバンドのキーボーディストは別の人が務めていたが、その日は都合がつかず、近田にお鉢が回ってきたのだ。