近田は70年代に、TBSのテレビドラマ『ムー一族』(1978年)に出演するなど、タレントとしても活動していた。『ムー一族』では近田がかねてより評価していた郷ひろみと共演を果たす。起用された理由の一つは、内田の麻雀仲間に『ムー一族』のプロデューサーだった久世光彦がおり、口を利いてくれたからだという(※2)。思えば、『ムー一族』には内田の妻・樹木希林もレギュラー出演しており、夫妻ともども縁があったといえる。
じつは、内田は、カウンターカルチャーと芸能界を取り持つような役割をたびたび担ってきた。60年代には、関西のジャズ喫茶などに出演していたファニーズというバンドに上京を勧め、当時自分の所属した大手芸能事務所の渡辺プロダクションに紹介している。このバンドこそ、沢田研二や岸部一徳などを輩出した、のちのザ・タイガースである。
70年代には、前衛的な演劇や映画を手がけていたプロデューサーの葛井欣士郎から、唐十郎作・蜷川幸雄演出による舞台『唐版・滝の白糸』に沢田研二に出てもらいたいので、内田から口説いてほしいと依頼された。当時、大スターだった沢田は多忙をきわめていたが、話をすると「面白いですね」と乗り気になる。内田は旧知の渡辺プロのマネージャーにも連絡し、実現へとこぎつけた。
芸能界にありながら、しがらみを脱して独自の活動を
内田自身は、かつては渡辺プロに所属しながら、終始、芸能界的なものに抗い続けた。近田もまた、内田に付き従うなかで、渡辺プロのマネージャーだった大里洋吉(現アミューズ会長)などと親しくなり、一時期は芸能界に身を置きながらも、まったくしがらみ抜きで独自の活動を展開してきた。それは前出の「考えるヒット」で、どんなヒット曲に対しても公平に評価し、ベテランのアーティストにも手を緩めなかったことでもあきらかだ。
近田は前出の内田のインタビュー本のなかで、《ユーヤさん。あとやるべきは新曲ですよね! がんばりますので、どうかそちらのほうもよろしくお願いいたします》と記していた(※1)。じつは2000年代には、小室哲哉と内田の新曲をつくろうと意気投合したものの、近田に癌が見つかるとともに、小室が巨額の詐欺容疑で逮捕されたこともあり、結局、実現しなかったという。彼は内田の死後、《裕也さんに曲をプレゼントすることができなかったのは、本当に心残りだよ……》と悔しさをにじませた(※2)。
内田のインタビュー本をプロデュースする作業は、近田が癌と闘病するなかで進めたものだ。同書は内田の生きる姿勢、また日本の音楽や映画界などに残した足跡を知る上で貴重な資料である。近田の自伝も同様に、ここ半世紀のカルチャーシーンの流れを捉えるのに必須というべき一冊だ。両者を合わせて読むことで、あらためて近田と内田のつながりも見えてくる。
※1 内田裕也『内田裕也 俺は最低な奴さ』(白夜書房、2009年)
※2 近田春夫『調子悪くてあたりまえ』(リトルモア、2021年)
※3 近田春夫『考えるヒット』(文春文庫、2000年)
※4 泉麻人『けっこう凄い人』(新潮文庫、1992年)