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 1968年にフラワーズは日劇のウエスタン・カーニバルに出演し、麻生はギリシャ神殿の巫女風の、ほかのメンバーは宇宙服のような衣装をまとい、ステージには昔の時代劇映画を映し出すといった内田のアイデアによる演出で、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスの楽曲をカバーした。あまりに斬新な演出に、観客の反応はいまひとつだったが、舞台袖はミュージシャンや業界関係者で超満員だったという。

 のちに内田は、近田によるインタビューで当時を振り返り、《俺は、確固たる意思と、人のことを気にしないでやってきたから、あの時代ぶっちぎりだと思うね》と自慢げに語った(※1)。

近田に引き継がれた内田裕也の「先取的」な素養

 そうした先取的なところは、近田にも多分に引き継がれているのではないか。70年代には、音楽ファンが見向きもしなかった歌謡曲にスポットを当て、ラジオや雑誌で評論を展開した。自身のアルバム『電撃的東京』(近田春夫とハルヲフォン名義、1978年)では、郷ひろみや森進一などの曲をカバーし、前出の『天然の美』では、筒美京平や山口洋子などといった歌謡曲の職業作曲家・作詞家たちに曲の提供を依頼している。アレンジでYMOに参加してもらったのも、まだ彼らがブレイクする前だったことを思えば、先見の明があった。

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1979年のアルバム『天然の美』には作曲家・筒美京平も参加

 80年代から90年代にかけては、プレジデントBPMやビブラストーンといったグループを結成し、日本語によるヒップホップを切り拓いた。

常に王道からは離れた道を…?

 半世紀におよぶ音楽生活では、ジューシィ・フルーツの「ジェニーはご機嫌ななめ」(1980年)やザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」(1981年)をヒットさせたり、CM音楽の世界でも、森永チョコボールや爽健美茶など、いまだに記憶に残る曲を手がけてもいる。それでいて、かつて《本筋、っていうのが嫌いみたいねオレは》と語っていたように(※4)、近田は常に世の中の王道からは外れたところを歩んできた。

 そのせいか、彼は正当な評価になかなか恵まれなかったような気がする。それは、活動があまりに多岐におよぶからでもあるのだろう。このあたりも内田と近いものを感じる。内田もまた、音楽以外にも、映画のプロデュースや俳優業などにのめり込んだほか、1991年には東京都知事選に出馬し、独特のパフォーマンスを展開したりもした。しかし、そこにはロックンローラーと呼ぶしかない、不変の姿勢が貫かれていたように思う。