それでもオリンピックへの特別な思いからだろうか、2019年、五輪担当相に就く。すると週刊文春(2019年9月19日号)はキス強要事件をふたたび取り上げ、「橋本氏は酔うと“キス魔”になって、同僚議員だろうが構わずキスをする」「飲み会では聖子コールにあわせて、両手に持ったビールを嬉しそうに飲んでいます」と、変わらぬ橋本の素行を伝えている。
「セイコ! セイコ! ハシモトセイコ!」の掛け声のなか、スピードスケートのフォームのごとく、左右の腕を振りながらそれぞれのジョッキを飲み干す「コール飲み」を、橋本本人もやっているのかと驚くところであるが、それはそれとして、橋本聖子とはいったい、どんな来歴の人物なのか。
スポーツと政治の接近とともにあった橋本聖子
橋本は、東京オリンピック開幕式の5日前、1964年10月5日に北海道に生まれる。聖火にちなんで「聖子」と名付けられたこと、生家は名馬マルゼンスキーの生産牧場であることなどは広く知られるところだ。幼い頃からスピードスケートを続け、1984年のサラエボ大会に出たのをきっかけに冬季大会に4回(日本人初の冬季競技の女性メダリストは橋本)、夏季大会に3回出場する。
特筆すべきは冬・夏両方に初めて出場した1988年である。2月に開かれたカルガリー大会にスピードスケートで出場した橋本は、5種目すべてで日本記録を更新し入賞を果たすと、4月から自転車の練習に取り組み、6月には日本代表の選考会を兼ねた自転車競技選手権を制して、ソウル大会に出場するのである。
冬季のみならず夏季大会にも出場したいとの思いから自転車を始めた橋本へは、「自転車一本の選手の夢を横取りするのか」「自転車は甘くない」といった声があったことだろう。
その後、国会議員になっても競技を辞めず、1996年にアトランタ大会に出場する。このときも「政治をおろそかにするな」「議員をやりながら出来るほど競技は甘くない」などと言われたことだろう。是非はともかく、そんなふうに私情を貫いてきたのである。
そんな橋本でも、議員になる際、結婚や出産は諦めないといけないかもしれないと思ったという。しかし1998年にSPの男性と結婚すると、2000年には出産する。現職の国会議員としては51年ぶりのことであった。
そのとき「子供を産むなら議員辞職しろ」との声もあがれば、出産後、議員会館に子連れ出勤を始めると「公私混同」の声があがることもあった。また議員が国会を休む際には議長に「請暇願」を出すのだが、そこには事故や病気などの理由が必要であったが妊娠はなかった。そこで衆参の女性議員が立ち上がり、「妊娠」が加わることになる。
こうした国会での女性の地位確立について橋本は、「誰かがやれば次の人がやりやすくなる」「実際に妊娠、出産する人がいないと仕組みは変わらない」(婦人公論2000年12月7日号)と述べている。
さらに橋本は、党の副幹事長や女性局長、参院会長に就くなどキャリアを重ね、前述のように「キス強要」問題を気にして大臣になるのは「遠慮」する傍らで、日本スケート連盟の会長の職を続け、それどころか全日本スキー連盟、日本ライフル射撃協会、日本ホッケー協会の要職に次々と就いていく。
ここに政治とスポーツの緊密な関係を見ることができよう。森がスポーツを蹂躙していく様子を散々見た今となっては、この2つが緊密なのは当たり前のことだが、かつてはそうではなかったのだ。