遺族に手紙を書き続けた河村死刑囚
殺害には別の目的があったとも見られた。
「見学氏は、買い上げていた大阪上場のメーカー株を失踪直前に突然売却し、利益を上げていました。その代わりに、見学氏と組んでいた仕手筋や暴力団は10億円を超える損失を被っていたことが分かりました。仕手の本尊が仲間を裏切ったわけで、報復のために殺されたという見方が出たのです」(当時取材した社会部記者)
しかし岡本死刑囚の手記を読む限り報復ではなく、犯行に周到な計画性もなかった。手記によれば、1億円を奪った時、マンションから死体を運び出した時、そして貸倉庫で死体を処理している時など、犯行が露見してもおかしくない場面はたくさんあった。
死刑判決が出た後、岡本死刑囚は遺族に手紙を書き続けた。見学氏の遺族からついに返信を貰ったと弁護士に聞いた時は、接見室で声を立てて泣いた。月に1度は、教誨師に来て貰って被害者の霊を弔っていたという。
ブラックマンデーが招いた失踪、自殺
大阪には名の知られた仕手筋が数人いた。見学氏と共に「北浜の御三家」と呼ばれたのが、仕手集団コスモポリタンを率いた池田保次氏と、不動産会社・日本土地の木本一馬氏だった。
見学氏が88年1月に殺された後、8月に池田氏が失踪(現在も行方不明)、10月に日本土地が倒産し、木本氏は3年後に豊中市の自宅で自殺した。
3人を失墜させたのは、世界中で株価が暴落した87年10月のブラックマンデーだった。高騰した株を担保にさらに金を引っ張る手法が逆回転し、巨額の追証に追われた。
しかしバブルはその後吹き上がり、仕手筋もさらに巨額の金を投じることになる。3人の資金源は金融業者や暴力団だったが、その後の仕手筋の資金源は銀行をはじめとした巨大な金融機関となっていく。