「頑張れば、吃音は何とかなる」という印象を与えかねないヒット映画
――バイデン氏はインタビューなどで『英国王のスピーチ』(2010)を激賞しているのですが、ご覧になりましたか。
ぽん はい。明快で前向きなメッセージが語られる一方で、個人的には「頑張れば吃音は何とかなる」という印象を与えかねない危うさも感じる作品です(笑)。
先ほど、吃音者が何か言おうとすると、大事なことを言おうとしているんじゃないかと勘違いされるという話をしましたが、物語を盛り上げるために、意図的に「障害者の言葉は重くて価値がある」というふうに見せている作品もある気がします。
――では、お勧めの作品は?
ぽん 『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(太田出版)という漫画です。表現がリアルで、自己紹介のシーンなどは読むのが辛い程でした。吃音を追体験する上では良いですね。
――最後に読者へのメッセージをお願いします。
ぽん 表に出せない苦しみを抱えている人は沢山います。吃音はその一つです。それに対して、善悪とか好悪とか誰の責任だとかを脇に置いて、まずは一度耳を傾けてみていただきたい。それが「知ろうとする」ことだと思うんです。その積み重ねで作られる世界がくるといいと思います。
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コミュニケーションとは本来は双方向的な交流であり、語る側と聞く側が共に形作るものであるはずだ。「コミュ力」の問題点は、就活の面接のように聞く側が語る側を一方的にジャッジするのがコミュニケーションの基本形であるかのように人々に思い込ませてしまうことなのではないか。
そこでは聞く側の姿勢は不問に付される。もし制限時間内に名前しか言い終わらない就活生がいても、面接官は淡々とバツ印を付けて忘却の彼方へと追いやるだけであり、まかり間違っても自分達や採用試験の在り方を問い直す事はないだろう。掬い取ろうとしなければ、聞き漏らしてしまった言葉がそこに存在するということにさえ気付けないのだ。
ぽん氏が挙げた漫画では、一人の少女が主人公に「喋れないんなら紙に書けばいいじゃん」と言ってペンと手帳を差し出したことから、全ての物語が動き出す。コミュニケーションとは聞こうとする人が存在してこそ始まるものだ、ということが端的に示されている。
これは何も吃音者との関わりに限った話ではなく、言葉を受け取るということが持つ普遍的な性質だと思う。言葉は聞かずに済ましてしまえる場合も多いし、その方が遥かに楽だ。聞くということは、相手の言葉に対して、お客さんであることをやめ、責任を分かち合い、共に紡いでいく行為である。そしておそらく今の社会が最も切実に必要としている営みだろう。