死者の祭りのクライマックス、野辺送り
この土葬を最後に、南山城村では土葬は行われていない。土葬ができない理由は、古くから伝わる煩雑なシキタリや野辺送りの役付けを村中の誰も覚えていなくなったからである。
私がはじめて南山城村の土葬調査をしたのは、およそ10年前。Nさんという村の男性へ細かな聞き取りを行った結果、驚いたことにその時点で同村には、土葬が9割方残っていることが明らかになった。
Nさんは2020年3月に亡くなったが、南山城村の野辺送りについて生き字引と言ってよい人だった。
野辺送りとは、遺族、親戚、僧侶、一般の村人が参列し、長蛇の列で死者を埋葬地まで送ることをいう。白い弔いの幟(のぼり)がたなびき、村人が手作りした葬具を各自が携え歩く野辺送りは、土葬の村で、死者の祭りのクライマックスといっていい。
Nさんによると、ほんの少し前まで盛んだったころの同村の野辺送りの模様は次のようになる。
午後2時、三番鉦の合図とともに自宅を出棺する。出棺前、身内だけで冷酒で別れの盃を交わした。これを出立ちの盃という。その後、玄関で故人が生前使った茶碗を割り、一束のワラを燃やした。柳田国男の葬式事典「葬送習俗語彙」には「出棺の時に一束藁を焚かぬと死人が帰って来る」とある。
野辺送りの葬列の先頭は、村の長老が鉦を携え歩いた。道中で長老はカンカンともの悲しい響きの鉦を叩き続けた。
次に「四つモチ」という役が続いた。木の棒の前後に二つの木箱を吊り、子どもが肩に担いで持った。二つの木箱には二つずつ大きな餅が入っていて、死出の旅の道中、死者が食べる弁当とされる。
次に位牌を持つのは喪主夫人。その次に亡者の膳を持つ役が続いた。この膳は、四つモチと異なり、墓地での死者の当座の昼飯という。
喪主がまとった死装束
その次に引導を渡す導師が、さらにその後、座棺が続いた。この座棺に2本の棒を渡し、棺の前後に一人ずつ担ぎ手がついた。
座棺の上のほうには天蓋(てんがい)をかざした。天蓋は寺院の天井から吊るし本堂を荘厳にするあの天蓋だ。野辺送りにはそれをミニチュアにした弔い用天蓋が使われた。天蓋持ちは重要な役とされ、南山城村では家の跡継ぎである喪主が持った。
喪主は、白い死装束と同じものをまとった。死者の着物を着ることで喪主は、死のケガレを一身に引き受けたと考えられる。
野辺送りの最後尾に連なったのは、四本幡という。白い幟が四本立ち、順に「諸行無常」「是生滅法」「生滅滅已」「寂滅為楽」と釈迦の涅槃経に出てくる語句が書かれている。全国の土葬習俗に共通する重要な葬具の一つである。