今や日本の火葬率は99・999…%。断トツの世界一である。亡くなった人を火葬せず、土中に埋葬する土葬は、すでに消滅していると思っている人も多い。
そのような状況の中、近刊の書「土葬の村」(講談社現代新書)は、日本に残った最後の土葬の村をルポした。
土葬は古代・中世から千年以上続いてきたと言われている。ただ近年、急速に消滅しつつある。同書は、土葬の最後の光芒をつぶさに描いた日本の伝統的な弔いの挽歌と言える。
その最後の土葬の舞台は、京都府と奈良県の県境のエリアに奇跡的に残っていた。火葬場が近くになかったことや、先祖の墓や仏壇を守る後継者が近くの都市にいたこともあるだろう。そんな奇跡の村の話を始めたい。
最後の土葬
後醍醐天皇が立て籠ったという笠置山。京都府の最南端に位置し、奈良県と県境で接する笠置山にもほど近い山間部に、南山城村という集落がある。東西を流れる木津川の南側の奥深い渓谷である。
2017年秋、この南山城村の高尾地区で、90歳を越える男性が亡くなり、遺言に従い土葬された。
昼ごろ、一番鉦(がね)が鳴ると、村人が喪家に集まりお葬式が始まる。二番鉦が鳴ると導師を務める僧の勤行が始まった。
祭壇の前に座棺の棺が置かれている。座棺とは死者があおむけに寝るいわゆる寝棺と異なり、縦長の直方体だ。棺の中の故人は、膝を折り胡坐(あぐら)座りした格好で納棺されている。今日、こうした座棺を葬儀で用いることはたいへん珍しい。
三番鉦がカンカンカンと鳴り響いた。出棺の合図だ。座棺の前後に野辺(のべ)送りの葬列が組まれ、埋葬墓地へと出発した。
墓地の入口で、座棺は蓮華台と呼ばれる石の棺台の上に置かれた。棺台の奥のほうに墓穴が掘られている。導師は穴の前に立ち、神前で使う幣(ぬさ)のような4本の白い紙の花を手に携えて回し、墓穴の東西南北四方に投げ、死者供養のお経を唱えた。
白い花は四花(しか)という。死花とも書き、昔からお葬式に用いられた代表的な葬具である。
四花は釈迦入滅の折、沙羅双樹の花まで悲しみ枯れたという故事に由来する。地神から墓地を借りる、または買い取るという意味で地取りの作法とも呼ばれている。
こうした埋葬作法の後、座棺は埋葬される。座棺の正面に「前」と書かれた紙が貼られている。導師が合図をすると、墓掘り人役の村人は、座棺の正面が西向きになるように方向を変えた。胡坐座りをしている死者が西方極楽浄土を拝むような恰好で、墓穴に沈んでいった――。