柳生十兵衛が植えたと伝わる十兵衛杉の下のほうにお参り墓が、さらにその下に埋め墓がいくつも林立していた。そのうちの一つに、49の塔婆で厳重に囲われた土葬墓地があった。まだ墓標の白木が真新しく、その時点で土葬が続いていることが明らかだった。
さらに興味深い事実がわかった。柳生の里を基点に半径約10キロの円を描くと、円内は土葬の村が集中する有数の土葬文化圏だと判明したのである。
まず円の北東に南山城村、その東に月ヶ瀬町が並ぶ。月ヶ瀬もごく最近まで土葬が残っていることがわかった。円の南西には奈良市田原地区の村があった。カンヌ国際映画祭のグランプリを受賞した「殯の森」の舞台となった村で、やはり土葬が8、9割方残っていた。柳生の里の南に位置する大保町は、土葬がほぼ100パーセントであった。さらに南の奈良県山辺郡山添村にも最近まで土葬が残っていたのである。
なぜ土葬の村は残ったのか
「死んでも焼かれるのはかなわん。生まれた土地の土に還りたい。それだけや」と、土葬の村の跡継ぎ男性は言っていた。
「葬儀会館での葬儀に比べると土葬・野辺送りははるかに手間がかかります。しかしムダをいっぱいすることが、同じ村で生きた故人の供養になる」と言ったのは、土葬の村のある住職である。
ここまで減少した土葬だが、まだ完全に消滅したとは考えていない。これほど複数の土葬の村が集中し継続して存続するエリアはほかに考えにくいが、今も散発的に土葬が行われている地域があるようだ。事実、和歌山や四国にも残っているという話を聞いたこともある。そうしたしきたりがすべて消える頃には、一体何が残っているのだろうか。
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