ふたたび長崎に戻った理由
スポーツを志す中学生が親元を離れることは、珍しいことではない。私が関戸という球児に猛烈な興味を引かれたのには、別の理由がある。
関戸は明徳義塾中3年生だった秋に、明徳を離れ、一度、長崎の実家に戻った。野球を止めたくなったわけではない。関戸は、別の高校へ進学するために長崎の公立中学に編入したのだ。
関戸が明徳を離れたという噂はすぐに私の耳にも届いた。関戸だけでなく、全国大会に出場していた他の明徳の有望選手も一緒に離れたという。それは大きな衝撃だった。
果たしてあのスーパー中学生はどこに行くのか。神奈川の名門とも、長崎の強豪とも噂された。
そして、18年が明けてすぐ、大阪桐蔭に入学するという話を耳にする。情報源は大阪桐蔭の関係者だったから信憑性は高かった。
高知の名門から大阪の名門へ
それでもにわかには信じられなかった。もちろん、どこの高校に進もうが球児の自由であり、学校側が選手を勧誘するのも自由競争である。それでも甲子園48勝の馬淵史郎監督が大きな期待を寄せていた関戸を、さすがに大阪桐蔭の西谷浩一監督とて積極的に勧誘することはためらわれるのではないか。
甲子園常連の高知の名門から大阪の名門へと居場所を移すことで、高校野球の世界がざわつき、SNSなどを通じてあらゆる情報が駆け巡るのは、中学生といえども関戸には分かっていただろう。いわば禁断の移籍だからこそ、それが真実だとわかった時、関戸の揺るがぬ決意がむしろ伝わってきて、私は支持したくなったのだ。
「どういう進路なら自分が一番、成長できるか。それを優先して考えて、大阪桐蔭に一般受験で入学しました。意思決定はすべて自分ひとりでしました」
全国屈指の名門で、関戸は1年秋からベンチに入った。初めて高校時代の彼を見たのは、その年の秋季近畿大会だった。確かに球速には目を見張ったが、記憶に残るのはマウンド上で投げる度に帽子を落とし、それをいちいち拾っている姿だ。フォームに安定感がなく、コントロールも定まっていなかった。
以降はケガに悩まされ、昨秋は股関節を痛めてさらにフォームを崩し、リリースポイントもバラバラだった。さらに秋季近畿大会後に右手の人差し指にデッドボールが当たって骨折する。しかし、投げられない時期が長かったことで、この冬は徹底して下半身をいじめ抜き、フォームに安定感を取り戻す。ケガの功名だった。