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 ほとんど病気のなかった父に異変が生じたのは、19年7月26日のことだ。好きなえびの天ぷらも食べなくなり、口にしたのはサラダの上にのせたミニトマトだけ。「病院に行く?」と尋ねても答えず、布団で寝ている状態が続いた。

 31日の午前3時半、潮が引くように息をひきとった。体を揺すり、胸に手を当てて鼓動を確認し、鼻に耳を近づけて死を悟った。

 それからどうしたのか。息子は被告人質問で、こう説明した。

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 弁護人「亡くなったのに気づいて、真っ先に何をしましたか」

 息子「(タオルで)体を拭いて、下着とパジャマの着替えをしました」

 弁護人「それから3週間以上、どうしていた」

 息子「毎日、そうやって体を拭いていました」

 弁護人「遺体はどうなった」

 息子「何日かして、虫がわいてきました。だから、それも一緒に拭くようになりました」

 検察官が法廷で明らかにした供述調書によると、息子は病院に通報しなかった理由をこう答えたという。

「通報しておやじを連れて行かれたら、本当にひとりぼっちになると思って、救急車を呼べなかった。ひとりになるのが怖かった。近くにいてほしかった」

父の死を伝えられず、毎日遺体の身体を拭いて過ごした24日間

 友禅染の仕事をしていたころは感情をあまりあらわにせず、黙々と染め物に打ち込んでいた。手を上げるようなことは絶対にしない温和な父だった。母の葬式のとき、涙で目を腫らした父から「2人で頑張っていこうな」と言われたのを覚えている。

 父が外で働き、自分は家事をする。それでなんとか生きてきた。数十年前に一度だけ、親子で九州を旅行したことがある。電車で各県をまわり、熊本で阿蘇山の大自然を感じた。鹿児島で桜島の迫力に圧倒され、大分で別府温泉につかった。一家3人で暮らしたころの幸せには及ばないけれども、前を向いて歩いていると実感できた。

 父は75歳まで用務員として働きながら、いつも息子の体調や仕事のことを気遣ってくれた。そうやって追い詰められることなく、これまで生きてこられた。遺体をきれいにしてあげたいという気持ちは、自然にわいた。顔や脇をタオルで拭きながら、感謝の念を届けているつもりだった。